人気ブログランキング |

<   2018年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

湘南遺産 生往寺

2018.6.24(日)、藤沢商工会館ミナパーク6階多目的ホール3で開催された「第3回湘南遺産選定発表会」で 生往寺 湘南遺産 に選定されました。
d0240916_15453787.jpg
(同時に「西寒川支線 廃線跡」も選定されました)

生往寺を湘南遺産へエントリーした理由は下記の通りです。

生往寺は、寒川町田端(茅ヶ崎市との境界)にある浄土宗のお寺です。
開創は菊地泰次、開山は文賀、本寺は芝の増上寺です。

湘南遺産へエントリーした理由は、生往寺は、湘南(相模国)の戦国時代の始まりと終わり(小田原城を巡る争い)に所縁の人々が眠る寺だからです。

応永23年(1416)の上杉禅秀の乱が戦国時代の始まりと言われています。この時、土肥・土屋の跡を賜ったのが大森氏で、領地となった小田原に、応永24年(1417)頃、大森頼春が城を築いたのが小田原城の始まりと考えられています。そこから80年以上、大森氏が城主でした。
しかし、文亀元年(1501)頃、伊勢宗瑞(俗称 北条早雲)が大森氏から城を奪いました。以降約90年間、後北条氏が小田原城主となり、湘南はもとより関東一円の領主になりました。
そして、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、後北条氏が滅び、家康が関東へ入ってきました。ここで、湘南の領主が総入れ替えになると共に、戦国時代に終わりを告げました。
生往寺は、初代小田原城主大森氏の末裔、菊地泰次(父親 大森泰頼)が創建し、葬地となったお寺です。
また、後北条氏が滅び、家康と共に関東へ入国した萩園の領主、遠山氏の葬地でもあります。
家康の関東入国以降の人々の墓石碑は寒川町倉見(高木清方)、茅ヶ崎市堤 浄見寺(大岡忠政)にもありますが、戦国時代の始まりと終わり、両方に所縁の人々の墓石碑があるのは生往寺だけと思われます。

後北条氏が滅び、家康と共に関東へ来て、湘南に知行地(領地)を持ち、陣屋を構え、葬地も湘南、という旗本は、遠山氏以外にもいます。
旗本氏名知行地陣屋葬地
遠山安吉茅ヶ崎市 萩園萩園 満福寺の西側。「トノヤシキ」の地名が残る。田端 生往寺(浄土宗)
高木清方(倉見 行安寺開基)(兄清秀は徳川十六神将の一人)寒川町 倉見倉見村の北にあり、東西42間、南北24間、今陸田となれり(新編相模国風土記稿)寒川町 倉見(陣屋の跡か?{行安寺(浄土宗)の北東}
大岡忠政(大岡越前守忠相(*)の祖先)茅ヶ崎市 堤 高田 寒川町 下大曲堤 浄見寺の東南茅ヶ崎市 浄見寺(浄土宗)

*: 南町奉行。大岡越前守忠相の知行地は寒川町 下大曲。
広報ふじさわ2013年7月10日号
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s130710/sisei23_s.html
廃藩置県 下大曲村は西大平県 大岡越前守忠相
https://samkajyoho.exblog.jp/26894579/
登録 2018.6.27
























































































































































































































































































































































































by jyohokiti | 2018-06-27 15:50 | 観光案内

相模国準四国八十八ケ所 江戸時代の巡礼路

江戸時代{文化(1804~1818)、文政(1818~1830)}、
順路は自由に回ったようです。
当時の記録(*1)には、比較的多くの人が回った道順や距離が説明してあり、まるで現代のガイドブックのようです。
今では廃寺になり、大師像も移動された札所が多いです。
しかし、それぞれ、何らかの痕跡が残っています。
d0240916_14150158.png
[江戸時代多くの人が歩いた順路]
1.第14番札所 大曲 地蔵堂(廃寺)

ここより大山道一之宮とり付右側也 六丁(*2)

2.第54番札所 景観寺

当家はつれ 南かはにて 高き所に つりかねのある堂也(距離記述なし)

3.第83番札所 城山 地蔵堂(廃寺、現在は、天満宮・梶原景時館址 )

ここより すこしもとの石橋のもとより堀につき 北へゆき それより畑中へいて 又田の中を北東へゆき 家の前 角の所也 八丁五十間

4.第6番札所 安楽寺

ここより すこし上り 畑の所を下れば 宮山明神みゆる根岸といふ所をヒほり 田のふちにいて森をめあてにゆくべし 十一丁廿五間

5.第62番札所 薬王寺(廃寺)

ここより 明神の森をいて 大道を北へ行けば左に寺あり 一丁五十間

6.第73番札所 神照寺(じんしょうじ)(廃寺)

(藤沢市)宮原

7.第64番札所 大蔵 弥陀堂(廃寺、現大蔵共同墓地)

当所より 南の方へ大道に出 すこし下りかけ 二ツ目の細道を左へ上り 真直にゆきてよし 十丁五十三間

8.第75番札所 宝塔院(廃寺)

当寺を出 南の方 家のまえを行き 村のはしを東へまはれば 右は田 左は家にて 左の方に小たかきところなり(距離記述なし)

9.第71番札所 観護寺(廃寺)

当寺より ひがしのかたへすこしゆけば 左の方 小高き寺なり 一丁

10.第15番 東覚寺(とうがくじ)(廃寺)

(茅ヶ崎市)寺尾村白峰寺へ

*1:「当時の記録」とは「再版新四国八十八ケ所(山上本)」と思われ、藤沢市教育文化研究所「藤沢 民俗文化」八号に山上家に伝えられた御詠歌と地図が原文のまま載っているらしいのですが、未確認です。
*2:一丁=六十間(約1.818m×60)≒109m

[出典]
「さむ川 その昔を語る 第5集」寒川町郷土研究会 昭和57年(1982)11月1日

[関連資料]
「相模国準四国 八十八ケ所」樋田豊宏(といだとよひろ)著 平成16年(2004)3月1日
「藤沢市史研究 6」 1975.2

初投稿日:2014.11.3

by jyohokiti | 2018-06-08 14:17 | 寒川町の歴史

戦国時代から江戸初期にかけて寒川に住んでいた人びと

戦国(後北条)時代から江戸時代(初期)にかけて寒川に住んでいた人びとをご紹介します。
d0240916_16453371.png

没年説明
1559永禄2年山中彦八郎・後北条氏家臣大道寺周勝の家臣。倉見領主。小田原衆所領役帳・河越衆の中に「一宮倉見30貫文」の記載あり。
・大村地番756が居館跡と考えられる。浅間社創建。(*1)
・倉見才戸遺跡第11次調査の結果、障子掘を発見。この障子掘は後北条時代の類例と近似している。よって、この辺りに屋敷があった可能性がある。(*4)
1580天正8年木内吉次千葉介家来。円妙院栄伸日貴居士。二男与兵衛門吉定の妻は広田修理の娘。吉定の長男(吉次の孫)は万部寺開山日桂上人。(*2)
1599慶長4年高木清方・高木六郎左衛門宣光の二男。高木清秀の弟。高木城(安城市高木町下屋敷:安城市指定文化財)で生まれたと推測される。水野下野守信元→佐久間右衛門尉信盛→水野和泉守忠重に属す。天正19年(1591)徳川家康直属の家臣となり、相模国高座郡倉見村に680石の知行地・倉見を賜わる。
慶長4年(1599)死去。66歳。墓は行安寺の北東。(*3)
・浅間社の敷地内に熊野神社創建。大村・神明社創建。(*1)
1610慶長15年大森泰次小田原城主・大森氏末裔
・父(泰頼)甲斐国・浅利で死して後、後北条家臣(河越衆)仙波・山中(彦八郎)両氏と共に相模国(一宮)へ帰る。一宮では菊地を名乗る。仙波氏(現・藤沢市遠藤)に撫育される。
・田端・生往寺開基。一之宮・車地蔵建立。貴船神社も勧請か?
1611慶長16年土屋権右衛門重成・東照宮、台徳院殿(秀忠)に仕える。1500石、江戸町奉行。(寛政重修諸家譜)
・小谷を知行か?福泉寺に墓あり。
1614慶長19年広田修理田端医王院開基と推定。摂津国、武庫郡広田郷(西宮市)の出と推定。関ケ原の合戦{慶長5年(1600)}では西軍か。関ケ原の合戦後、寒川・田端邑へ。墓塔は医王院本堂に近接、本尊・薬師如来に向かって建つ。実厳院心光宗月居士。(*2)

[出典]

*1:「倉見神社之一考察」池田銟七 平成10年
*2:「医王院開山之一考察」池田銟七 平成12年
*3:新訂「寛政重修諸家譜」第5 続群書類従完成会 昭和39.11.30 p396
*4:「神奈川県高座郡寒川町 倉見才戸遺跡 ―第11次調査 発掘調査報告書―」寒川町教育委員会 2010.3.31
*5: ウィキペディア「高木清秀」https://ja.wikipedia.org/wiki/高木清秀

by jyohokiti | 2018-06-05 16:01 | 観光案内

寒川町のあれこれをご紹介しています。


by jyohokiti
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る