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カテゴリ:寒川町の歴史( 5 )

倉見 行安寺 開山 開基

倉見 行安寺は「開山 成阿、開基 高木清方」と伝わっています。(寒川町史 10 別編 寺院 H9.11.1 p157)
しかし、各史料の年代と由緒が正しいとしたら「開山 成阿、開基 高木清方」は再考が必要な気がします。[行安寺の由緒書{元禄9年(1696)}、新編相模国風土記稿{天保12年(1841)成立}どちらも後世に書かれたもので、信憑性に問題があるのはやむ負えない。]
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[史料]
天正7年(1579)9月13日 成阿卒(新編相模国風土記稿)
天正9年(1581) 成阿 行安寺起立(浄土宗寺院由緒書)(卒後起立?卒年が誤り?)
天正11年(1583)12月13日 山中三河守子形部輔卒 戒名号行安院殿宗誉浄定大禅門(浄土宗寺院由緒書)
天正19年(1591) 高木甚太郎清方、高座郡の内(倉見)にて680石余の采地を賜ふ(新編相模国風土記稿)
慶長4年(1599)12月14日 高木清方卒(新編相模国風土記稿)
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[史料からわかること]
・成阿が天正7年に卒していたら、天正18年に関東に入国した高木清方と会えなかった。
・成阿が開山だとしたら、天正7年以前。
・「行安」の名が、山中三河守の子供の法名に由来しているとしたら、創建は天正11年以降。
・高木清方が開基なら天正19年以降(高木清方が天正19年以降に創建したとしても、山中氏の法名を使うとは考え難い)。

以上のことから、行安寺の創建は次のように考えられないでしょうか。

・天正7年以前に成阿が「弥陀堂」を開山。
・天正11年から19年の間に「山中氏」が行安寺を創建。

更新:2018.12.30





by jyohokiti | 2018-07-06 12:25 | 寒川町の歴史

廃藩置県 下大曲村は西大平県 大岡越前守忠相

現在の「神奈川県高座郡寒川町大曲2丁目辺り(小出川と県道45号の間)」を昔は「下大曲村」と言いました。
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江戸時代初期から代々大岡氏が知行地としており、寛延2年(1749)に大岡忠相(ただすけ)が1万石に加増され、三河国西大平(愛知県岡崎市)藩主となった時も、徳川家康より得た譜代の領地として下大曲の領主権を手放さなかったといいます(*1)。
そのため、明治4年(1871)7月の廃藩置県の際、下大曲村は西大平県の飛び地になりました。
上大曲村始め周りの多くの村は幕府の直轄領だったため、神奈川県になりました。
明治4年(1871)11月の統廃合で下大曲村も神奈川県に編入されました。

堤村(茅ヶ崎市)も廃藩置県で西大平県に属しましたが、堤村が西大平藩に属したのは明治元年で、期間は約3年でした。
明治元年10月15日、沼津藩が上総国菊間に転封させられたため、西大平藩の上総国市原郡の3ケ村(*2)が上知となり、相模国2ケ村(堤村、香川村)に付替えされ西大平藩になりました。(*3)



[出典]
*1:下大曲(しもおおまがり)
寒川町の大字。大曲村(上大曲)とともに「大曲」と称されることが多い。現在の大曲2丁目にあたり、小出川が村の東境を流れる。村高は『元禄郷帳』『天保郷帳』を通して220石。江戸時代初期から代々大岡氏が知行地としており、寛延2年(1749)年に大岡忠相(ただすけ)が1万石に加増され、三河国西大平(愛知県岡崎市)藩主となった時も、徳川家康より得た譜代の領地として下大曲の領主権を手放さなかったという。『新編相模国風土記稿』には本間氏知行とあるが、これは誤りである。明治4年(1871)7月の廃藩置県で西大平県、同年11月には神奈川県第25区に編成されるが、同6年の改正法で大曲村とともに第18大区8小区に区分され、明治22年に寒川村の大字となった。(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

*2:宮原村(現市原市高滝)、不入斗村、島野村か?
[出典]ウィキペディア 市原郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/市原郡

*3:「岡崎市史 近世 3」H4.7.1 p1484

[参考]
寒川文書館 第16回企画展示 近世寒川の領主群像―うちの殿様はどんな人?―
https://www.lib-arc.samukawa.kanagawa.jp/opac/bunsyo/contents/gallery/tenji16/index.html

広報ふじさわ2013年7月10日号 大岡忠相と下大曲村
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s130710/sisei23_s.html

愛知県岡崎市と茅ヶ崎市の提携経緯
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/profile/yukarinomachi/1007357.html


神奈川県旧高座郡7市1町の変遷
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/koza.htm



by jyohokiti | 2018-07-01 16:29 | 寒川町の歴史

相模国準四国八十八ケ所 江戸時代の巡礼路

江戸時代{文化(1804~1818)、文政(1818~1830)}、
順路は自由に回ったようです。
当時の記録(*1)には、比較的多くの人が回った道順や距離が説明してあり、まるで現代のガイドブックのようです。
今では廃寺になり、大師像も移動された札所が多いです。
しかし、それぞれ、何らかの痕跡が残っています。
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[江戸時代多くの人が歩いた順路]
1.第14番札所 大曲 地蔵堂(廃寺)

ここより大山道一之宮とり付右側也 六丁(*2)

2.第54番札所 景観寺

当家はつれ 南かはにて 高き所に つりかねのある堂也(距離記述なし)

3.第83番札所 城山 地蔵堂(廃寺、現在は、天満宮・梶原景時館址 )

ここより すこしもとの石橋のもとより堀につき 北へゆき それより畑中へいて 又田の中を北東へゆき 家の前 角の所也 八丁五十間

4.第6番札所 安楽寺

ここより すこし上り 畑の所を下れば 宮山明神みゆる根岸といふ所をヒほり 田のふちにいて森をめあてにゆくべし 十一丁廿五間

5.第62番札所 薬王寺(廃寺)

ここより 明神の森をいて 大道を北へ行けば左に寺あり 一丁五十間

6.第73番札所 神照寺(じんしょうじ)(廃寺)

(藤沢市)宮原

7.第64番札所 大蔵 弥陀堂(廃寺、現大蔵共同墓地)

当所より 南の方へ大道に出 すこし下りかけ 二ツ目の細道を左へ上り 真直にゆきてよし 十丁五十三間

8.第75番札所 宝塔院(廃寺)

当寺を出 南の方 家のまえを行き 村のはしを東へまはれば 右は田 左は家にて 左の方に小たかきところなり(距離記述なし)

9.第71番札所 観護寺(廃寺)

当寺より ひがしのかたへすこしゆけば 左の方 小高き寺なり 一丁

10.第15番 東覚寺(とうがくじ)(廃寺)

(茅ヶ崎市)寺尾村白峰寺へ

*1:「当時の記録」とは「再版新四国八十八ケ所(山上本)」と思われ、藤沢市教育文化研究所「藤沢 民俗文化」八号に山上家に伝えられた御詠歌と地図が原文のまま載っているらしいのですが、未確認です。
*2:一丁=六十間(約1.818m×60)≒109m

[出典]
「さむ川 その昔を語る 第5集」寒川町郷土研究会 昭和57年(1982)11月1日

[関連資料]
「相模国準四国 八十八ケ所」樋田豊宏(といだとよひろ)著 平成16年(2004)3月1日
「藤沢市史研究 6」 1975.2

初投稿日:2014.11.3

by jyohokiti | 2018-06-08 14:17 | 寒川町の歴史

武田信玄 小田原攻め 佐川は寒川か?

寒川神社に「武田信玄が奉納した」と伝わる兜があります。小田原攻めの祭に奉納したと伝わるのですが、それは、いつ、どのような場面だったのか、明確な記録は見つかっていません。(⇒[推論])
後世、佐川(サカワ)を寒川(サムカワ)と解釈し、寒川神社へ兜を奉納した根拠とする説があります。一方、佐川(サカワ)は酒匂(サカワ)と解釈する説もあります。

[佐川を寒川と解釈する説]
資料1:寒川町史研究 第2号 1989.3 p26
ところで、信玄の小田原攻めについては「甲斐国志」所収の都留郡諏訪社の棟札の銘文に次の如き記載がある。
「(略)太守(信玄)之御感、自他之誉不可勝計、其日本陣佐川(寒川)打帰、翌二日重而彼地進馬、巣城計蹴詰、悉撃破畢、如元佐川(寒川)両日滞在、如此被達累年之宿望之間、同五日、大神迄開陣、(略)」
日付けに若干の疑問が残るが、いずれにしても、信玄は小田原攻めに際してその前後に二日づつ相州寒川に本陣を張っていることがわかる。

資料2:大日本史料 第10編之3 昭和7年5月25日発行 東京帝国大学 p266
甲斐国史122附録第4 都留郡諏訪村諏方明神之棟札
(前略)寒川ニ陣ス 相州東佐川(寒川)著陣、彼地両日張陣(後略)
天正五年(1577)拾二月五日
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(棟札には「東佐川」と書いてある。それを「東寒川」と解釈したのは東京帝国大学である)

[佐川を酒匂と解釈する説]
資料3:神奈川県史 通史編1原始・古代・中世 昭和56.3.25 p1034
28日には相模の東佐川(酒匂川以東の酒匂のことであろう)に到着したといい

資料4:平塚市史 9 通史編 古代・中世・近世 平成2.3.30 p180
28日には相模の東佐川(酒匂川以東の酒匂のことであろう)に到着したといい
(平塚市史は神奈川県史を引用している)

小田原城を攻めるのに、大群を率いて、その都度、寒川から相模川を渡って、小田原まで往復するのは、非現実的と思われます。佐川は酒匂と解釈するのが妥当と思われます。


by jyohokiti | 2016-12-09 18:43 | 寒川町の歴史

寒川町のお寺 山号・院号と本尊

山号、院号と本尊は関係があるかもしれないと思って、寒川町内のお寺を調べてみました。
関係ありませんでした。
「医王院」という院号でも、本尊は薬師如来とは限りません。
(#16.寒川山・医王院・薬王寺)
寒川町内のお寺の本尊は、地蔵菩薩と阿弥陀如来が多かった。
曹洞宗は、寺名あれば、院号なし。院号あれば寺名なし。

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by jyohokiti | 2015-01-06 15:50 | 寒川町の歴史

寒川町のあれこれをご紹介しています。


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