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カテゴリ:観光案内( 55 )

湘南遺産 生往寺

2018.6.24(日)、藤沢商工会館ミナパーク6階多目的ホール3で開催された「第3回湘南遺産選定発表会」で 生往寺 湘南遺産 に選定されました。
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(同時に「西寒川支線 廃線跡」も選定されました)

生往寺を湘南遺産へエントリーした理由は下記の通りです。

生往寺は、寒川町田端(茅ヶ崎市との境界)にある浄土宗のお寺です。
開創は菊地泰次、開山は文賀、本寺は芝の増上寺です。

湘南遺産へエントリーした理由は、生往寺は、湘南(相模国)の戦国時代の始まりと終わり(小田原城を巡る争い)に所縁の人々が眠る寺だからです。

応永23年(1416)の上杉禅秀の乱が戦国時代の始まりと言われています。この時、土肥・土屋の跡を賜ったのが大森氏で、領地となった小田原に、応永24年(1417)頃、大森頼春が城を築いたのが小田原城の始まりと考えられています。そこから80年以上、大森氏が城主でした。
しかし、文亀元年(1501)頃、伊勢宗瑞(俗称 北条早雲)が大森氏から城を奪いました。以降約90年間、後北条氏が小田原城主となり、湘南はもとより関東一円の領主になりました。
そして、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、後北条氏が滅び、家康が関東へ入ってきました。ここで、湘南の領主が総入れ替えになると共に、戦国時代に終わりを告げました。
生往寺は、初代小田原城主大森氏の末裔、菊地泰次(父親 大森泰頼)が創建し、葬地となったお寺です。
また、後北条氏が滅び、家康と共に関東へ入国した萩園の領主、遠山氏の葬地でもあります。
家康の関東入国以降の人々の墓石碑は寒川町倉見(高木清方)、茅ヶ崎市堤 浄見寺(大岡忠政)にもありますが、戦国時代の始まりと終わり、両方に所縁の人々の墓石碑があるのは生往寺だけと思われます。

後北条氏が滅び、家康と共に関東へ来て、湘南に知行地(領地)を持ち、陣屋を構え、葬地も湘南、という旗本は、遠山氏以外にもいます。
旗本氏名知行地陣屋葬地
遠山安吉茅ヶ崎市 萩園萩園 満福寺の西側。「トノヤシキ」の地名が残る。田端 生往寺(浄土宗)
高木清方(倉見 行安寺開基)(兄清秀は徳川十六神将の一人)寒川町 倉見倉見村の北にあり、東西42間、南北24間、今陸田となれり(新編相模国風土記稿)寒川町 倉見(陣屋の跡か?{行安寺(浄土宗)の北東}
大岡忠政(大岡越前守忠相(*)の祖先)茅ヶ崎市 堤 高田 寒川町 下大曲堤 浄見寺の東南茅ヶ崎市 浄見寺(浄土宗)

*: 南町奉行。大岡越前守忠相の知行地は寒川町 下大曲。
広報ふじさわ2013年7月10日号
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s130710/sisei23_s.html
廃藩置県 下大曲村は西大平県 大岡越前守忠相
https://samkajyoho.exblog.jp/26894579/
登録 2018.6.27
























































































































































































































































































































































































by jyohokiti | 2018-06-27 15:50 | 観光案内

戦国時代から江戸初期にかけて寒川に住んでいた人びと

戦国(後北条)時代から江戸時代(初期)にかけて寒川に住んでいた人びとをご紹介します。
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没年説明
1559永禄2年山中彦八郎・後北条氏家臣大道寺周勝の家臣。倉見領主。小田原衆所領役帳・河越衆の中に「一宮倉見30貫文」の記載あり。
・大村地番756が居館跡と考えられる。浅間社創建。(*1)
・倉見才戸遺跡第11次調査の結果、障子掘を発見。この障子掘は後北条時代の類例と近似している。よって、この辺りに屋敷があった可能性がある。(*4)
1580天正8年木内吉次千葉介家来。円妙院栄伸日貴居士。二男与兵衛門吉定の妻は広田修理の娘。吉定の長男(吉次の孫)は万部寺開山日桂上人。(*2)
1599慶長4年高木清方・高木六郎左衛門宣光の二男。高木清秀の弟。高木城(安城市高木町下屋敷:安城市指定文化財)で生まれたと推測される。水野下野守信元→佐久間右衛門尉信盛→水野和泉守忠重に属す。天正19年(1591)徳川家康直属の家臣となり、相模国高座郡倉見村に680石の知行地・倉見を賜わる。
慶長4年(1599)死去。66歳。墓は行安寺の北東。(*3)
・浅間社の敷地内に熊野神社創建。大村・神明社創建。(*1)
1610慶長15年大森泰次小田原城主・大森氏末裔
・父(泰頼)甲斐国・浅利で死して後、後北条家臣(河越衆)仙波・山中(彦八郎)両氏と共に相模国(一宮)へ帰る。一宮では菊地を名乗る。仙波氏(現・藤沢市遠藤)に撫育される。
・田端・生往寺開基。一之宮・車地蔵建立。貴船神社も勧請か?
1611慶長16年土屋権右衛門重成・東照宮、台徳院殿(秀忠)に仕える。1500石、江戸町奉行。(寛政重修諸家譜)
・小谷を知行か?福泉寺に墓あり。
1614慶長19年広田修理田端医王院開基と推定。摂津国、武庫郡広田郷(西宮市)の出と推定。関ケ原の合戦{慶長5年(1600)}では西軍か。関ケ原の合戦後、寒川・田端邑へ。墓塔は医王院本堂に近接、本尊・薬師如来に向かって建つ。実厳院心光宗月居士。(*2)

[出典]

*1:「倉見神社之一考察」池田銟七 平成10年
*2:「医王院開山之一考察」池田銟七 平成12年
*3:新訂「寛政重修諸家譜」第5 続群書類従完成会 昭和39.11.30 p396
*4:「神奈川県高座郡寒川町 倉見才戸遺跡 ―第11次調査 発掘調査報告書―」寒川町教育委員会 2010.3.31
*5: ウィキペディア「高木清秀」https://ja.wikipedia.org/wiki/高木清秀

by jyohokiti | 2018-06-05 16:01 | 観光案内

寒川町 庚申塔 一覧

寒川町には庚申塔が38基あります。
文字(16基)、三猿{7基(内訳:三面各1猿2基,一面三猿5基)}、青面金剛(14基、内ショケラ持ち3基)、地蔵型(1基)の4種類あります。
d0240916_14010889.jpg←菅谷神社 文字庚申塔
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←医王院 三面各一猿庚申塔
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←一之宮宿町 横一列三猿庚申塔
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←南泉寺 ショケラ持ち青面金剛庚申塔
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←大蔵共同墓地 町内唯一の地蔵型庚申塔


場所文字三猿青面金剛地蔵建立年備考
3面各1猿1面3猿ショケラ無ショケラ有
田端東町不明
医王院元禄3年1690
一之宮宿町寛文4年1664
南泉寺安政4年1857
中瀬神明社文化12年1815
十二神社天保14年1843現大曲神社
鈴木家内寛文3年1663
下大曲神社承応2年1653現在は方徳資料館で展示
天保14年1843
安楽寺享保17年1732
大塚児童遊園地東側嘉永4年1851
菅谷神社享保11年1726
天明8年1788
文化11年1814
文化13年1816
文化13年1816
嘉永2年1849
大蔵共同墓地享保4年1719
小谷東町元文5年1740
小動神社文化12年1815
天保10年1839
文久2年1862
不明残欠
宮山根岸下享保3年1718
福岡家内享保2年1717
旭保育園北側享保2年1717
寒川橋東側享和3年1803
旭橋脇享保□年1716-1736
中州稲荷社天保7年1836
宮山橋脇嘉永1年1843
端午橋東側享保7年1722宮山、西善院近く
十二天神社享保12年1727倉見
天保13年1842
倉見中倉見不明
倉見才戸下文久1年1861
倉見地蔵堂天保2年1831
不明
不明

出典:寒川町史11別編 美術工芸 H4.11.1


by jyohokiti | 2018-05-29 14:48 | 観光案内

河童徳利(かっぱどっくり)

大曲を発祥の地とする物語に河童徳利があります。
この物語にはいくつかの説があります。

フジパン 河童徳利
http://minwa.fujipan.co.jp/area/kanagawa_006/

絵本 かっぱどっくり
http://www.sasakick77.com/hp-kappa-d/kapa-dokuri.htm

『間門川(まかどがわ)の河童伝説《茅ケ崎市西久保》』
http://48863135.at.webry.info/201112/article_32.html

民話『河童徳利』の主人公 五郎兵衛さん
http://chigasaki-city.com/culture.php?ID=978

下記は江戸時代に書かれた宝暦現来集(ほうりゃくげんらいしゅう)第3集巻21の内容です。
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天保2卯年(1831)四月、本所に住す彫物師猪之助と申男、大山に参詣之砌、同所間角村百姓三輪堀五郎左衛門方へ立寄、左之陶の譯聞候由寫来る、此譯聞しに、相州大山道西久保と申所小き川有、其川にて河童馬を引込所を、大勢にて此河童を打殺さんとせしを、同所間角村百姓三輪堀五郎左衛門と申男、河童を貰い助ける、其夜河童禮に来る、右の陶へ酒を入、鱸(すずき)二本添て来る、鎌倉時代の此なりと、凡六百年を過し事也、此河童雌雄にて、一疋は鎌倉に住す、一疋は間角川に住して、折々文通をせしとの事、彼河童の云く、此陶の酒呑たる時、少し宛残し置けば、萬年も絶ゆる事なしと云へり、或時其意を知らざる者、残らず酒を明し、夫より一滴も出ず、おしき事也、今に五郎左衛門方の什器とせり、参て尋れば見せける、かの彫物師猪之助、銀座御役所秋田氏にて出合し時、予は右實を好を聞、見たる儘聞たる儘を語り聞せる故、直ぐさま寫置く也、

物語発祥の地には看板が立っています。
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この辺りを公園にする計画があります。
茅ヶ崎市・寒川町広域連携施策 推進計画書 平成28年度事業報告書(PDF↓)
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/791/h28houkoku.pdf

主人公の初代三堀五郎兵衛は円蔵・輪光寺
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の檀家でした。そのため、河童の像
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と碑が輪光寺にあります。

三堀五郎兵衛の墓は静岡県榛原郡川根本町上長尾332の智満寺にあるそうです。没年:文政七年(1824年)。
http://www.chigasaki-shoren.com/kappaHP/kappa05.htm
河童徳利は三堀家の子孫三堀ウタさんの娘の(山田)玉枝さんが保管しているそうです。

[地図]



by jyohokiti | 2018-05-20 15:38 | 観光案内

一之宮 入沢家 弁財天堂 日野屋

入沢家弁財天堂
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入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立されたと思われます。

一之宮・入沢家の屋敷地内の池の中島にあり、弁天堂として定石どおりの配置である。総欅(けやき)造りで、随所に丹念な彫刻を施し、表面には木目を活かして透明な漆を塗るなど、近世風の華麗な装飾を施して、時代性をよく示した建築である。18世紀半ばごろの建立かと思われる。町指定重要文化財。(『町史11』p563、『町史15』p181)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


入沢家・日野屋

享保16年(1731)から文久元年(1861)5月まで約130年間、入沢家は江戸本町四丁目(現在の日本橋)に店舗(日野屋)を構えていました。
文政7年(1824)から天保11年(1840)の間、入沢家が日野屋を手放したことがあります。文政7年(1824)3月発行の 「江戸買物独案内」では日野屋は喜兵衛の名前になっています。
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また、文久元年(1861)、入沢家が江戸から手を引いた後、引き継いだ日野屋惣助の引札(宣伝用のチラシ)が残っています。朝日オリコミ四国のHP
(http://www.asahi-os.com/first/study/history.html)
によると、『「日野屋」は、薬種取扱い商店で「人参大乗円」「金応丹」という商品の看板が見え、タイトルには「江戸出店の図」と書かれていますから、新規出店の挨拶と告知の広告と思われます。』とのこと。
また、内藤記念くすり博物館
(http://www.eisai.co.jp/museum/curator/advertisement/see02.html)
にチラシの詳しい説明が掲載されています。
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日野屋 江戸へも進出していた一之宮村の豪農の屋号。入沢伊右衛門と新太郎を世襲名として持つ。同家は、寛文年間(1661~1673)に近江(おうみ)国日野(滋賀県日野町)の商人が一之宮村に定住したものといわれる。江戸に拠点を構え、一之宮村内でも本宅で農業経営や米穀商売などを行うかたわら、向店(むかいだな)を開いて商売を行っていた。
このうち江戸店の開店は、享保16年(1731)で、江戸の中でも一等地である本町四丁目に店を構え、薬種・荒物のほか繰綿・木綿・ろうそく・金物などを取り扱っていた。元文2年(1737)には一之宮で向店を開店し、江戸店から仕入れた薬種や砂糖などの荒物を商うようになる。宝暦5年(1755)に江戸の十組問屋(とくみどんや)のひとつ大伝馬町組薬種問屋仲間に加入し、以後は薬種・荒物を主に取り扱うようになる。また、江戸においては町屋敷経営を行い、18世紀前半には一等地の日本橋町人地を中心に、20か所以上の町屋敷を所有し、家賃収入を得ていた。18世紀末年ごろに、同家の支配役であった喜兵衛に江戸店を譲渡してからは、度重なる火災や物価高騰などから経営不振に陥った。天保11年(1840)には再び入沢家が江戸店の経営にあたるが、業績は回復せず、文久元年(1861)には江戸から撤退し、本宅と向店の経営に専念することとなった。天保2年(1831)に渡辺崋山が著した「游相日記(ゆうそうにっき)」には、厚木周辺の豪農として日野屋新太郎の名が記されている。(『町史6』p556)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


年表

1661~1673寛文年間近江(おうみ)国日野(滋賀県日野町)の商人が一之宮村に定住
1731享保16年江戸店開店
1737元文2年一之宮で向店を開店
1755宝暦5年5月、十組問屋仲間の一員となり、薬種を主要取扱品目とした(*1)。
1764~1781明和・安永年間日野屋江戸店の繁栄が続いた(*1)。
1782天明2年これより前、一之宮弁財天堂建立。
1824文政7年3月発行、「江戸買物独案内」本町四丁目(現・日本橋)に日野屋喜兵衛の名あり。
1832天保3年町屋敷も喜兵衛(入沢家の支配役)他へ譲渡(*1)。{店舗は 文政7年(1824)より前に喜兵衛へ譲渡している。}
1840天保11年再び入沢家が日野屋江戸店の経営にあたる(*1)。
1861文久元年●5月、日野屋惣助に店等を売却して江戸店での商売に終止符を打った(*1)。
●この頃(*1)入沢家から日野屋を引き継いだ日野屋惣助が引札発行。

出典

*1:「寒川町史6 通史編 原始・古代・中世・近世」平成10.11.1





by jyohokiti | 2018-05-17 16:34 | 観光案内

田端山 医王院

田端山医王院は、田端にある高野山真言宗、もと古義真言宗の寺院。山号を田端山といい、岡田の安楽寺末。本尊は薬師如来。「医王院縁起」によれば、承和元年(834)、摂津(せっつ)の僧龍海による開山とするが、『新編相模国風土記稿』は、永禄3年(1560)に再興した伝誉を中興とする。江戸時代は鎮守貴船大神と稲荷社を支配したが、神仏分離にともない医王院は寺院として存続し、貴船大神は斎藤龍太夫に管理させる旨の願書が明治2年(1869)に作成されている。(『町史10』p95)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


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沿革

[説-1]

・承和元年(834)(田端地区に?)龍海僧正が開山。
・約700年間無住。
・永禄3年(1560)伝誉が寒川神社供僧の1つとして復興。(寒川神社供僧、他の2つは神照寺と西善院。)

[説-2]

慶長期(1596~1615)、広田修理が開基。開山は伝誉。
承和元年(834)頃は、田端に集落の形成がないので、寺院を建てるとは考え難い。田端に寺を作る程の集落ができたのは(大森)菊地泰次が生往寺を建てた頃(1590年前後)から。

年表

1560永禄3年伝誉-1が寒川神社供僧の1つとして(田端山?)医王院復興(*1)。
1558~1570永禄中伝誉-1卒す(*4)。
1596~1615慶長期広田修理が医王院開基(*3)。
1614慶長19年広田修理没。田端山医王院に葬る。法名 実厳院心光宗月居士。(田端山医王院本堂東側墓碑。田端山医王院境内最古の墓石と思われる。)
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1633寛永10年「関東真言宗古義本末寺帳」に岡田安楽寺の末寺として田端山医王院あり(*2)。
1656明暦2年伝誉-2没。田端山医王院に葬る。(田端山医王院本堂南側墓碑)
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1659万治2年貴船社の棟札に別当・医王院の記載あり(*5)。

確認事項

・広田修理が慶長期(1596~)に田端山医王院を開創したのであれば、伝誉-1はすでに亡くなっているので、(中興)開山は伝誉-2である。

不明点

(1)伝誉は2人いたか?
伝誉-1の存在を裏付ける資料は確認できない。
伝誉-2は墓碑と安楽寺所蔵文書で存在を確認できる。
(2)再興した年「永禄3年(1560)」の根拠が不明。新編相模国風土記稿にその記載はない(但し「中興僧伝誉永禄中卒す」の記載はあり)。
(3)寒川神社の三供僧は、神照寺、西善院、三大坊と言われている(*4)。 田端山医王院が神照寺、西善院と共に三供僧の一つなら、いつ、なぜ、三大坊と入れ替わったのか?

境内の文化財

三猿庚申塔 元禄3年(1690) 正面と左右に各一匹の三猿を彫る。
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出典

*1:田端山医王院寺伝 昭和25年(1950)作
*2:寒川町史 10 別編 寺院 平成9.11.1
*3:医王院開山之一考察 池田銟七 平成12
https://sites.google.com/site/samukawabookindex/ioinkaizan
*4:新編相模国風土記稿 巻之六十二 村里部 高座郡巻之四
*5:寒川町史11 別編 美術・工芸 平成4.11.1



by jyohokiti | 2018-05-14 11:30 | 観光案内

寒川町の青面金剛庚申塔巡り

寒川町には青面金剛庚申塔が14基あります。
その中に、日本最古と目される青面金剛庚申塔があります。
また、14基の青面金剛庚申塔の内、ショケラ持ちの青面金剛庚申塔が3基あります。
そこで、これらの青面金剛庚申塔を巡ってみました。
このコースは約10kmです。
歩いても良いですし、寒川町観光協会で自転車を借りて、自転車で巡ることもできます。
[コースの地図]↓
寒川町観光協会から出発です。
信号を渡り、
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「巴屋(そば)」寒川駅前店の前を通り、「グリーンハウス(不動産)」の角を右に曲がります。
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「ウスイ植物園(花)」 の前を通り抜け「湘南信用金庫」の裏を左折すると踏切へ出ます。踏切を渡ったら、直ぐ左へ曲がります。(踏切を渡ると直ぐ右手に「さがみや菓舗(和菓子)」があります)。線路に沿って進み、
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寒川駅手前を右折します。県道47号線を渡ります。「ファミリーマート(コンビニ)」の横を直進する
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と南泉寺です。
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本堂に向かって左手に「相模国準四国八十八カ所弘法大師座像」と並んで「ショケラ持ち青面金剛庚申塔」があります。
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南泉寺、ショケラ持ち六臂青面金剛立像庚申塔、板状駒型、安政4年(1857)(*)↓
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南泉寺山門を出て、住宅街を少し進んで左折して、右折して「中瀬」交差点を渡って、直ぐ右折します。「マックスバリュ・エクスプレス寒川中瀬店(コンビニ)」を左手に見て進みます。「景観寺」の手前を左折して、しばらく住宅街の中を進みます。
寒川湘南保育園の裏を通り大曲神社へ出ます。
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県道45号線(大山街道)へ出ると目の前に「バーミヤン寒川大曲店(中華レストラン)」があります。茅ヶ崎方向へ少し進み
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「FUJIスーパー大曲店」前で左折して、少し進むと「大曲地域集会所」があります。
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ここが「下大曲神社」跡で、
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国内最古と目される青面金剛庚申塔がありました。
現在、青面金剛庚申塔は、ここでは無く、寒川神社方徳資料館で保管・展示されています。道を進むと小出川へ出ます。橋の手前を左折します。東福寺址
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を通り過ぎて少し進むと、テニスコートの先に鷹匠橋があります。
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鷹匠橋を渡って進むと相模線の踏切があります。
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踏切の先は神奈川県立茅ヶ崎北陵高校です。崖の手前を茅ヶ崎北陵高校に沿って左折して進むと国指定史跡「下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)」です。
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寺尾橋を渡り
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小出川の土手を少し進んで左折して農道を進みます。この辺りが11月に開催される「みんなの花火」の会場です。「明洞(韓国料理店)」の歩道で県道47号線を渡ります。東守神社(とうずじんじゃ)の脇の緩やかな坂を登ります。寒川さくら幼稚園の先が菅谷神社(すがやじんじゃ)です。
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鳥居をくぐり進むと、 本殿の右側、神輿殿と古いお札納め処の間にショケラ持ち青面金剛庚申塔があります。
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菅谷神社、ショケラ持ち六臂青面金剛立像庚申塔、角柱平頭型、文化13年(1816)(*)↓
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菅谷神社を出たらすぐ右へ曲がり越公園の前で左折します。この辺りが「岡田遺跡」です。
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岡田遺跡: 約4,000~5,000年前(縄文時代)の巨大集落。釣手土器始め出土品は寒川町文化財学習センターで見ることができます。
段丘に沿った道(縄文の道)を北へ進むと湘風園養護老人ホーム「大蔵東原遺跡」があります。
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県道45号線へ出ます。「ワイショップ寒川シャイン」の側の大蔵信号を渡ります。最初の三叉路に庚申塔があります。
小谷(こやと)東町(小谷1495-1)、六臂青面金剛立像庚申塔、板状櫛型、三猿付、元文5年(1740)(*)↓
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ここを右折すると小谷(こやと)小学校へ出ます。その先の車の通りが多い道を進むと小動(こゆるぎ)神社です。
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本殿右に庚申塔があります。
小動神社、ショケラ持ち二臂青面金剛立像庚申塔、板状駒型、三猿付、天保10年(1839)(*)↓左端
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目久尻川方向へ進み、左折します。ここから根岸交差点を目指します。奈良・平安時代の古東海道がこの辺りを通っていた可能性があります。
寒川総合体育館の横の道を「さむかわ保育園」方向へ緩やかな坂を登ります。曲がり角に庚申塔があります。
宮山根岸下(宮山1331)、四臂青面金剛立像庚申塔、唐破風付笠塔婆型、享保3年(1718)(*)↓
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緩やかな坂を登りきったら直進します。中原街道を横切り、
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大塚古墳公園
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の前を通って寒川町観光協会へ到着です。

[出典]
*:寒川町史 11 別編 美術工芸 平成4.11.1 寒川町編集



庚申塔

庚申信仰に基づいて造られた石塔。60日に一度の庚申(かのえさる)の日に眠ると寿命が縮まるため夜明かしするという風習は平安時代に日本にもたらされたが、近世にはこれが庶民に浸透し、庚申塔がさかんに造立された。寒川町内には下大曲神社の承応2年(1653)塔を最古として、38基が存在する。下大曲のものは四臂(よんぴ)(手が4本)の青面金剛(しょうめんこんごう)を浮き彫りにするもので、県指定重要文化財。17・18世紀には六臂(ろっぴ)の青面金剛像が多く、19世紀には「庚申塔」と刻んだ文字塔が増加する傾向が見られる。(『町史11』p293、『町史15』p179)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

下大曲神社

下大曲にあった神社。江戸時代は八幡社と称した。明治期に村内の神社を合祀(ごうし)して下大曲神社となる。明治45年(1912)、田端の貴船大神へ一時合祀されるが、大正14年(1925)に独立し再興した。承応2年(1653)の庚申塔(こうしんとう)は県指定重要文化財。ほかに、同年銘の八幡と書かれた石の祠(ほこら)、文政13年(1830)に西大平藩主大岡忠愛(ただよし)が奉納した木製扁額(へんがく)などが残されている。(『町史9』p151・184)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


by jyohokiti | 2018-05-10 18:02 | 観光案内

貴船社 寒川町田端 貴船大神

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創建

貴船社(貴船大神)創建には2説あります。
神奈川県 神社誌(*2)建久年間(1190~1199)
池田銟七氏(*1)慶長年間(1596~1615)
(建久年間は、まだ田端村に集落が存在していなかった。後北条の末期、人々が田端村へ移り住むようになり、集落が形成された。)

勧請主

池田銟七氏によれば、勧請主は「菊地泰次と考えたい」とのことです。

(理由)
1)御霊殿の紋所が源氏ゆかりの笹竜胆(ささりんどう:村上源氏の定紋)である。
2)神宝の内、相州鍛冶「正広」作の刀は大森家に伝来していたものと考えたい。
3)大森菊地泰次の住居を生往寺付近としたら、貴船社は裏鬼門に当たる。

以上の説を勘案すると、
「慶長年間に大森菊地泰次が創建した。」
または、
「建久年間に創建され、慶長年間に大森菊地泰次によって再建された。」
と考えることもできます。
(不明点:もし、大森菊地泰次が創建したのであれば、別当寺は生往寺でもよさそうですが、医王院が貴船社の別当寺です。)

社名

文政7(1824)9.24 貴船社
新編相模国風土記稿{天保12(1841)年成立} 貴船社
明治2年 貴船大神

出典

*2:「神奈川県神社誌」編集・発行 神奈川県神社庁 S56.6.20 p388


by jyohokiti | 2018-04-27 17:28 | 観光案内

The stone monument of “Kagesue kajiwara”

This is the stone monument of “kagesue Kajiwara".

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He is a Samurai. He was born in 1162 and died in 1200 with a fight. It is located beside the seven warriors tomb.

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The monument was made in 2008. It was made imitating the sculpture of the float of Ichinomiya Nishimachi.

->[the sculpture of the float]

There are three floats in Ichinomiya. The floats gather at the Matsudo-bashi bridge near South Community Center on the first Saturday night in August.

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The floats were lit up with paper lanterns. It is said that this festival began in the early Meiji era (1868—1912). The floats were also made at that time.

->[Instagram]




by jyohokiti | 2018-03-13 12:07 | 観光案内

寒川町一之宮 車地蔵 の特徴

車地蔵は日本各地にあります。
多くの場合「車」は後生車(*1)を意味していて、地蔵堂の柱やお地蔵様の台座に一輪取り付けられています。横浜市鶴見区、上尾市、毛呂山町の車地蔵は市や町の指定文化財です(*2)

後生車以外の車を意味している場合もあります。
小山町用沢宝鏡寺(*3)や茅ヶ崎市本村(制作年不明)(*4)の「車」は「大八車」を意味しています。
小山町用沢宝鏡寺の車地蔵は、六角形のろくろの側面に6体(各面1体)のお地蔵様が彫られていて、後生車はないものの六道に結びついています。形は他の地域の六角地蔵(*5)に似ています。
茅ヶ崎市本村の車地蔵は六道には関係なく、霊を供養するためだそうです。

寒川町一之宮の車地蔵(*6)は供車の上にお地蔵様が立っていて、他に例を見ない形をしています。
(寒川町一之宮車地蔵。縁日は毎月24日。↓)
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車地蔵の「車」は後生車を意味する場合が多いのですが、後生車が使われるようになったのは江戸時代以降ではないかと思われます。関ケ原の合戦以前の車地蔵の例には小山町用沢宝鏡寺の車地蔵がありますが、後生車とは関係ありません。(下表参照)
寒川町一之宮の(供)車地蔵が最初に作られたのは、関ケ原の合戦以前{慶長2年(1597)}なので、後生車とは縁がないと思われます。

表 車地蔵の例
西暦和暦場所種類
1193建久4年静岡県駿東郡小山町用沢宝鏡寺大八車の意
1695元禄8年埼玉県富士見市東大久保地蔵堂に後生車
1718享保3年神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷本覚寺地蔵堂の柱に後生車
1719享保4年千葉県いすみ市(旧坂東村)台座に後生車
1743寛保3年埼玉県春日部市牛島台座に後生車
1746延享3年東京都八王子市山田町雲龍寺再建 台座に後生車
1754宝暦4年千葉県館山市那古独立石塔に後生車
1788天明8年埼玉県加須市大室 竜宮寺台座に後生車
1792寛政4年埼玉県上尾市大石地区台座に後生車
1823文政6年埼玉県入間郡毛呂山(もろやま)町大谷木台座に後生車。但し、浮彫なので、回らない。


[説明/出典]
*1:後生車を回すと、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の苦しみから救われると信じられてきた。
*2:横浜市鶴見区本覚寺車地蔵(獅子ケ谷市民の森、上神明社の近く)。享保3年(1718)建立。H8.11.5横浜市指定文化財。(地蔵堂に後生車)
上尾市指定文化財第20号堤崎地区車地蔵(台座に後生車)
毛呂山町指定文化財第52号大谷木の車地蔵(台座に後生車、但し、回すことはできない)
*3:「小山町史 第9巻 民族編」 H5.11.30 p973.
*4:「湘南のお地蔵さま」中島 淳一 江ノ電沿線新聞社 2017.4
水越健 『茅ヶ崎郷土史』あしかび叢書3 昭和34年
「東海道沿いの伝説」 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 「文化資料館ブックレット1  あのみち このみち 歴史みち」
車地蔵のお話
本村1〜4丁目の辺りは、昔からの家々が集まる一画です。昔、ここに「おかね」という娘がいて、ある若者と愛し合っていました。ところが若者が心変わりをして、ほかの娘と一緒になったことから、おかねは若者の家に火を放ちました。放火は重罪で、おかねはとがめられて火あぶりの刑になりました。ところが、それから夜になるとを引くような「ギー、ギー」という叫び声が村中に響くようになりました。これは、おかねの霊が迷っているからだということから、地蔵を作り、車地蔵と名付け供養したところ、不思議な叫び声はなくなったということです。 車地蔵は、本村4丁目にある海前寺の墓地の一画に今も祭ってあり、覆屋(おおいや)のなかに5体並んでいるうちの1体(右から2番目)がそれといわれています。
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*5:例―西東京市指定文化財 第1号石幢六角地蔵尊、第22号六角地蔵石幢
*6:寒川町一之宮車地蔵は、木像の地蔵尊を祀ったお堂。供車(ともくるま)地蔵ともいう。「車地蔵沿革史」によれば、堂宇の建立は、慶長2年(1597)3月15日、江戸初期に一之宮に居住していた大森菊地泰次とその家老の秋元金平によるという。秋元は、人びとの模範となるような忠臣であったが、あいにく嗣子がなく、また神仏への子授祈願の効果も現れなかった。そのためこのままでは家が衰微すると察した主君の菊地氏は自らの長子、菊之丞を養子とし、併せて禄高の一部を分知してその後継となした。このことで主君に対する金平の忠誠心は益々深まったが、菊地氏もその至情を承け、安産子育地蔵尊を共に祀ったという。明治初年、堂宇の衰微により、本尊は日向薬師(伊勢原市)へと移管されたが、明治27年(1894)火災により焼失した。昭和11年(1936)、後裔の霊夢を契機に堂宇の再建が企てられ、また本尊も再刻され今日に至る。講中奉納による前立の石の地蔵尊は江戸期のもの。毎月24日の縁日には、地蔵講中による奉仕が現在も続いている。(『町史10』p113)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)

発行日 2018.2.13


by jyohokiti | 2018-03-09 17:01 | 観光案内

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