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カテゴリ:観光案内( 55 )

河童徳利(かっぱどっくり)

大曲を発祥の地とする物語に河童徳利があります。
この物語にはいくつかの説があります。

フジパン 河童徳利
http://minwa.fujipan.co.jp/area/kanagawa_006/

絵本 かっぱどっくり
http://www.sasakick77.com/hp-kappa-d/kapa-dokuri.htm

『間門川(まかどがわ)の河童伝説《茅ケ崎市西久保》』
http://48863135.at.webry.info/201112/article_32.html

下記は江戸時代に書かれた宝暦現来集(ほうりゃくげんらいしゅう)第3集巻21の内容です。
河童徳利(かっぱどっくり)_d0240916_12074791.jpg
河童徳利(かっぱどっくり)_d0240916_12081894.jpg

天保2卯年(1831)四月、本所に住す彫物師猪之助と申男、大山に参詣之砌、同所間角村百姓三輪堀五郎左衛門方へ立寄、左之陶の譯聞候由寫来る、此譯聞しに、相州大山道西久保と申所小き川有、其川にて河童馬を引込所を、大勢にて此河童を打殺さんとせしを、同所間角村百姓三輪堀五郎左衛門と申男、河童を貰い助ける、其夜河童禮に来る、右の陶へ酒を入、鱸(すずき)二本添て来る、鎌倉時代の此なりと、凡六百年を過し事也、此河童雌雄にて、一疋は鎌倉に住す、一疋は間角川に住して、折々文通をせしとの事、彼河童の云く、此陶の酒呑たる時、少し宛残し置けば、萬年も絶ゆる事なしと云へり、或時其意を知らざる者、残らず酒を明し、夫より一滴も出ず、おしき事也、今に五郎左衛門方の什器とせり、参て尋れば見せける、かの彫物師猪之助、銀座御役所秋田氏にて出合し時、予は右實を好を聞、見たる儘聞たる儘を語り聞せる故、直ぐさま寫置く也、

物語発祥の地には看板が立っています。
河童徳利(かっぱどっくり)_d0240916_12115989.jpg

この辺りを公園にする計画があります。
茅ヶ崎市・寒川町広域連携施策 推進計画書 平成28年度事業報告書(PDF↓)
http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/009/791/h28houkoku.pdf

主人公の初代三堀五郎兵衛は円蔵・輪光寺
河童徳利(かっぱどっくり)_d0240916_12122658.jpg

の檀家でした。そのため、河童の像
河童徳利(かっぱどっくり)_d0240916_12125769.jpg

と碑が輪光寺にあります。

三堀五郎兵衛の墓は静岡県榛原郡川根本町上長尾332の智満寺にあるそうです。没年:文政七年(1824年)。
http://www.chigasaki-shoren.com/kappaHP/kappa05.htm
河童徳利は三堀家の子孫三堀ウタさんの娘の(山田)玉枝さんが保管しているそうです。

[地図]



by jyohokiti | 2020-05-10 11:57 | 観光案内

根岸弁財天由来 寒川町 宮山緑地

寒川町 宮山緑地に弁財天が祭られています。
根岸弁財天由来 寒川町 宮山緑地_d0240916_13374786.jpg

この弁財天の由来は次の通りです。
根岸弁財天由来 寒川町 宮山緑地_d0240916_1339527.jpg

根岸弁天池は、寒川町のほぼ中央にあって、その発祥の年代は定かではないが、土地の古老より伝え聞くところによれば、天正年間というから、今から約500年前と推察される。
当時の湧き水の豊富なこの池は、これより下流新橋地区(現在の役場庁舎付近)までの水田の用水として永年利用されていた。
徳川の代に入り、元和6年(1616)より、このあたり宮山村1,177石を知行していた旗本杉浦正次氏により、池の整備と弁財天を造ったのが始まりと云うことで、以来、明治年代杉浦大八郎氏まで杉浦氏の下に在った。明治22年に石造りの社が建立された。昭和60年に寒川町より公園緑地として整備される機会に、有志合寄り、根岸町内住民を中心に昭和61年3月弁財天石像を建立して古き良き時代を忍びつつ、地域住民の連帯と協調の輪を広げるべく、ここに由来を記すものである。

昭和62年6月吉日
根岸弁財天保存会
祭神 弁財天
例祭日 4月初巳日

功徳

商売繁盛、学問・技芸・音楽の発達。又、女人には愛嬌を授け美人となり、良縁を得、子宝を授かる



[関連サイト]
宮山緑地弁財天
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/soshiki/kankyokeizai/sangyoshinko/kanko/info/kankouspot/1392272610672.html

根岸弁財天(神奈川県寒川町宮山)
http://zinzyasanpai.web.fc2.com/14/samukawa/385.htm


by jyohokiti | 2020-03-15 16:35 | 観光案内

梶原景時と寒川町一之宮

寒川町一之宮には梶原景時ゆかりの史跡が残っています。


梶原景時(?~1200年)
治承4年(1180):石橋山の合戦で源頼朝を救った。
治承5年(1181):頼朝に家臣として認知された。この時、寒川・一之宮の地を領した。
梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18202533.jpg[←写真]梶原景時館跡
(現在、寒川町一之宮に梶原景時館跡と称される遺跡が残っています)

正治元年(1199):結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で弾劾され、一之宮に下向。
正治2年(1200):武田有義(ありよし)を将軍に擁立し、再起を図ろうと京都に向け出立。その途中、駿河国狐ヶ崎(清水市)で討たれ梶原山で最期を遂げた。
景時、辞世の句
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみをしけれ」

静岡県静岡市清水区高橋2丁目7番4号の寺院「高源寺」境内には年を経た石碑{(静岡市指定文化財)「不尽乾坤燈外燈龍没」と記されている。}があり、梶原一族の供養碑と伝えられます。
「不尽乾坤燈外燈龍没」という詩句は唐の杜牧の作で次の七言絶句からとったものです。
無辺風月眼中眼。不尽乾坤燈外燈。柳暗花明十萬戸。敲門処々人膺有。

梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18304674.jpg[←写真]伝梶原七士の墓
(一之宮の留守居役であった家族、家臣らがその者達を弔ったという説や、景時父子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祭ったものとも言われています)



文政4年(1821)頃、この辺りにあった城山地蔵堂(じょうやまじぞうどう)に相模国準四国八十八ヶ所第83番札所が置かれました。城山とは梶原景時の館があった所といわれています。
明治の神仏分離令により、弘法大師石像は南泉寺へ移されました。


梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18445369.jpg梶原景時館跡と伝梶原七士の墓の間に「梶原景時と一宮館跡」を説明する看板が立っています。


梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_1972685.jpg看板の一部(一宮館址案内図)を拡大。
梶原景時ゆかりの史跡の位置が掴めます。各史跡を訪れる前にご覧ください。(画像をクリックすると拡大します)}


[参考資料]
鎌倉幕府の重臣、梶原景時の最期の地
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/shizuoka_bunkazai/tyubu_kajiwarayama.html

梶原一族について / 臨済宗 高源寺 静岡県静岡市清水区


by jyohokiti | 2020-02-28 16:11 | 観光案内

相模国準四国八十八ケ所-寒川

「相模国準四国八十八ケ所」とは、鵠沼村の浅場太郎右衛門親子が発起して、文政3年(1820)~4年、四国八十八ケ所を倣い、鎌倉・藤沢・茅ヶ崎・寒川・横浜へ弘法大師石像を設置し、巡礼地としたものです。
(本四国八十八ケ所の寺院名、土地名、その他なんらかの似ている所を選び、本四国の写しの番号としました。したがって、この巡礼は、ご本尊より、弘法大師にお参りする傾向の方が強かったらしい。)

[巡礼の時期]
春(または秋)のお彼岸前後を選んで、3日ないし4日間。
{関東大震災(大正12年(1923))まで盛んであったらしい。}

[持ち物]
鈴(れい)、おべんとう(、造花)

[工程]
1日目:普門寺~鎌倉、片瀬方面
2日目:茅ケ崎、柳島方面
3日目:寒川宮山辺り
4日目:藤沢俣野

寒川町には「相模国準四国八十八ケ所」の内、6番、14番をはじめ、計10箇所の札所がありました。
しかし、慶応4年(1868)の神仏混淆廃止、明治2年(1869)の神仏分離、廃仏毀釈、等によって、廃寺になった寺院や堂があり、現在は9箇所残っています。
廃寺に伴い、弘法大師石像は別の場所へ移されたものがあります。

寒川町の「相模国準四国八十八ケ所」

[札所番号] 6
[霊場名] 安楽寺
[ご詠歌] 後の世と おぼつかなくも このみしか この世からこそ 安くたのしき
[写] 阿波安楽寺
[所在地] 寒川町岡田2387
[現在] 本寺の山門を入り左側にある大師堂に6番、71番、75番の弘法大師石像三体が安置されています。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_1635352.jpg左75番、中央6番、右71番


[札所番号] 14
[霊場名] 地蔵堂(廃堂){東福寺持。宝永4年(1707)円心が建立}
[ご詠歌] 大まがり まがる心の人とても すぐにみちびけ 六のちまたに
[写] 阿波常楽寺
[所在地] 寒川町大曲1-18
[現在] 今は地蔵堂はなく、共同墓地になっています。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_2271645.jpg大師石像は共同墓地の一角の小堂に六地蔵と共に一番右端に納められています。


[札所番号] 15
[霊場名] 等覚寺(東覚寺とも)(廃寺)
[ご詠歌]海ならぬ 岡田のあきの うちなびき みちもなぎさの 波とこそみえ
[写] 阿波國分寺
[所在地] 寒川町岡田4-3
[現在] 明治37年(1904)観護寺と共に安楽寺に併合されました。
大師石像は茅ヶ崎円蔵寺(茅ヶ崎市十間坂1-3-39)にあります。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_14553613.jpg茅ヶ崎円蔵寺
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_14562238.jpg15番弘法大師像。山門を入り、左手に六地蔵があり、その奥、塀沿いの樹木に囲まれた中にあります。(右隣は円蔵寺の76番。)

[札所番号] 54
[霊場名] 南泉寺
[ご詠歌] つくりなす つみのおも荷も みほとけの 誓にかるの いちのみやかな
[写] 伊予延命寺
[所在地] 寒川町一ノ宮1-23-1
[現在] 文政4年(1821)南泉寺に置かれた54番は、文政5年、景観寺(一之宮1-18-5)へ移されました。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_16393067.jpg
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_21552836.jpg大師石像は景観寺山門を入り本堂手前右手にあります。

[札所番号] 62
[霊場名] 薬王寺(廃寺){和銅3年(710)行基開山、承和年間(834~848)快便が再興}
[ご詠歌] 千はやふる 神の宮山 さむ川の ふかき恵みは 身にぞしみける
[写] 伊予宝寿寺
[所在地] 寒川町宮山3913辺り
[現在] 現在の寒川神社境内(東部分)にありました。慶応4年(1868)神仏混淆廃止により、薬王寺の住職は還俗。この時点で薬王寺は廃寺となりました。
大師石像は西善院(寒川町宮山3925)に移されました。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_1503722.jpg大師小堂は西善院山門左手にあり、62番と73番、二体の大師石像が安置されています。62番は左側(文政3年11月吉日)という説があります(*4)。

[札所番号]64
[霊場名] 弥陀堂(廃堂)
[ご詠歌] としとしに あきのみのりの 大蔵と かねてつけたる さとの名にもや
[写] 伊予前神(まえがみ)
[所在地] 寒川町大蔵854
[現在] 今は 弥陀堂はなく、共同墓地になっています。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_11243180.jpg大師石像は入口の小さな堂に納められています。

[札所番号] 71
[霊場名] 観護寺(廃寺)
[ご詠歌] この寺の みのりをあふぐ 民草を ゆたかにまつれ 山もおか田も
[写] 讃岐弥谷(いやだに)
[所在地] 寒川町岡田3-24
[現在] 明治37年(1904)廃寺となりました。墓地は残っています。
大師石像は安楽寺(寒川町岡田2387)へ移され6番とともにあります。

[札所番号] 73
[霊場名] 神照寺(廃寺)
[ご詠歌] 宮山に にほふ朝日は たまちはふ 神のてらせる かがみなるらん
[写] 讃岐出釈迦(しゅっしゃか)
[所在地] 寒川町宮山3885辺り
[現在] 神照寺は明治2年(1869)、神仏分離令、廃仏毀釈によって廃寺となりました。墓地は残っています。
大師石像は西善院(寒川町宮山3925)に移され62番とともにあります。右側が73番、という説があります。(*4)

[札所番号] 75
[霊場名] 宝塔院(廃寺)
[ご詠歌] 民草に 露を岡田の うるおひも さながら法の めぐみなりけり
[写] 讃岐善通寺
[所在地] 寒川町岡田3-6
[現在] 明治40年(1907)廃寺となりました。墓地は残っています。
大師石像は安楽寺(寒川町岡田2387)へ移され6番とともにあります。

[札所番号] 83
[霊場名]城山(じょうやま)地蔵堂(廃堂)
[ご詠歌] 法の露 むすべばすぐに ゆうたすき かけしちかいは 一之宮かな
[写] 讃岐一宮寺
[所在地] 寒川町一之宮8-6
[現在] 城山とは梶原景時の館があった所といわれ、その館址は天満宮の小公園となっています。
大師石像は明治の神仏分離令により、南泉寺(寒川町一ノ宮1-23-1)に移されました。
相模国準四国八十八ケ所-寒川_d0240916_15542130.jpg大師堂は南泉寺本堂の左側にあります。

寒川町内の「相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅」↓
http://samkajyoho.exblog.jp/15941545/

[参考資料]
1.「寒川町史 10 別冊 寺院」寒川町編集、平成9年発行
2.「相模国準四国八十八ケ所-弘法大師石像をめぐりて-」三木洋、昭和58年10月15日発行
3.「相模国準四国八十八ケ所」鵠沼を語る会作、2010年(?)発行
http://kugenuma.sakura.ne.jp/sagami88.pdf
4.「郷土の石碑 梶原景時管見」広田富治著、平成6年5月3日発行

札所の地図→[地図]


その他の地域の準四国八十八ケ所

日本三大新四国霊場
知多四国八十八箇所、小豆島八十八箇所、篠栗四国八十八箇所

福岡県篠栗(ささぐり)町の八十八ケ所
起源は安政2年(1855)。(資料-1)
地元の人たちによって守り継がれています。

[第87番札所「龍泉堂」のお接待]
木山マキ子さんが紙や木の板に描いた「ほほ笑む仏様」と「達筆柔和な文字で書かれた暖かい言葉」。インターネットで垣間見ることができます。(資料-2)
資料-1:篠栗霊場の歴史
http://www.sasagurikanko.com/history/
資料-2:NHK 小さな旅 「ひと筆 よりそって」
http://www.nhk.or.jp/kotabi/konkai_111106.html

新四国八十八ケ所相馬霊場
この霊場は観覚光音(かんがくこうおん)禅師(注1)が四国八十八ヶ所を訪れ 札所の砂を持ち帰り、利根川の流れに沿った寺院・堂塔にうめて開基したといわれています。

(注1)観覚光音禅師(伊勢屋源六)
信濃の国の出身で13歳で江戸の呉服商の伊勢屋に奉公後、後に独立して取手宿で商売を始める。
その後、長禅師の幻堂禅師の弟子となり、出家し、四国八十八箇所を巡り、取手に各札所の砂を持ち帰った人物である。

新四国八十八ケ所相馬霊場
http://www.toride-kankou.net/henro

[前回改訂:2015.2.3]



by jyohokiti | 2019-11-24 15:15 | 観光案内

寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅

発行 2016.1.9
寒川町には相模国準四国八十八ケ所巡りの弘法大師像が九体残っています
設置されてから180年以上の時を経て、安置された場所から移されたものもありますが、相模国一之宮(現在の寒川町)のほぼ中央に分布するこれらの弘法大師像を辿ってみませんか。
総距離 約6.6km

[巡礼路]
1.JR相模線 香川駅→第14番札所 大曲共同墓地内(約1km)
香川駅を出たらスーパーマーケット「クラウン」を右手に見て真直ぐ進みます。小出川を渡ったら大曲神社(旧十二天神社)またはバーミアン寒川大曲店方向を目指してください。大曲神社手前の道を左折、または、バーミアン前の道を右折すると入口が見えます。
↓左:共同墓地入口、右:右端が第14番弘法大師坐像
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_15312120.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_15313734.jpg

2.大曲共同墓地内→第54番札所 景観寺(約0.9km)
大曲共同墓地から大曲神社の裏の道を県道45号線と平行に西(相模川方向)へ進みます。信号がある四辻の角が景観寺です。
↓左:景観寺全景、右:第54番弘法大師坐像。門を入ってすぐ右手に祠があります。
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_155497.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_15542477.jpg

3.景観寺→第83番札所 南泉寺(約0.4km)
景観寺の隣に神明社(しんめいしゃ)があり、その脇の道を進み一之宮八幡大神神社の裏を進むと南泉寺です。
↓左:南泉寺山門、右:第83番弘法大師坐像。本堂左手にあります。
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_16442286.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_16444426.jpg

4.南泉寺→第6番・71番・75番札所 安楽寺(約1km)
南泉寺前の道を北へ進み、JR相模線の踏み切りを渡り、岡田西信号を直進、ベルテ寒川の角を曲がり、ファッションストアー「アグ」の裏の道を直進すると安楽寺です。
↓左:安楽寺、右:弘法大師坐像。左から75番・6番・71番。本堂手前左手にあります。
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_14165758.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_189593.jpg

5.安楽寺→第62番・73番札所 西善院(さいぜんいん)(約1.3km)
南泉寺からきた道を少しもどり、右手の坂を上り、寒川小学校となりのさむかわ保育園の脇を通って寒川総合体育館へ出ます。寒川町消防署前の道を寒川神社方向へ向かい、寒川神社三の鳥居前が西善院です。
↓左:西善院、右:弘法大師坐像。二体の内、左側が第62番(薬王寺)、右側が73番(神照寺)という説があります。
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_1828742.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_18282037.jpg

6.西善院→第64番札所 大蔵(おおぞう)共同墓地(約1.8km)
安楽寺からきた道を寒川町消防署前までもどり、更に宮山緑地を通り過ぎ日産工機の裏を通ってオートバックス裏の道を進みます。県道45号線を渡ります。ただし、近くに横断歩道がありません。陸橋を渡りましょう。陸橋を渡ったら、昭和シェル石油の脇の道を進み、大和鋼帯寒川社宅の前を通りすぎるとすぐ大蔵共同墓地です。
↓左:昭和シェル石油の脇の道、右:大蔵共同墓地にある弘法大師坐像。
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_1845276.jpg寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_15544021.jpg

7.大蔵共同墓地→大蔵バス亭(約0.2km)
寒川ウォーク 相模国準四国八十八ケ所 弘法大師像を巡る 小旅_d0240916_18525590.jpg寒川駅まで歩くこともできますが、バスもあります。
バス停は大和鋼帯寒川社宅とは反対方向へ進み、すぐ左へ曲がり県道45号線へ出ると右手に「大蔵」バス停があります。バスは次の2種類あります。
(1)神奈中バス
時刻表(バス停の名称=大蔵)
http://dia.kanachu.jp/bus/viewtop
(2)コミュニティバス「もくせい号」の運行内容(平成27年10月から)
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/soshiki/toshikensetsu/toshikeikaku/tokei_kaihatsu/info/koukyoukoutsu/bus_mokusei/1443140073151.html

巡礼路は鵠沼を語る会発行の「相模国準四国八十八ケ所」(資料-1)に準じています。

[巡礼路マップ]
巡礼路マップは→[地図]をご覧ください。

[参考サイト]
秋雨の相模国準四国八十八ケ所巡り(2013)

資料-1:鵠沼を語る会発行「相模国準四国八十八ケ所」
http://kugenuma.sakura.ne.jp/sagami88.pdf


by jyohokiti | 2019-11-24 15:04 | 観光案内

相模国分寺が寒川にあったかも

■「相模国分寺が寒川にあったかもしれない」と考えるきっかけ

東鑑 第十二 建久三年(1192)八月九日の条(図1)にある「国分寺 一宮下」の解釈の一つに「相模国分寺が一宮寒川神社の近くにあったのではないか」という説があります。
「国分寺 一宮下」に対する見解は様々あります(下表)。
発行年月日資料名内容
1841新編相模国風土記稿 第3輯 高座郡国分寺此地一宮寒川神社ヲ距ル(ヘダテル)事一里餘。然ルヲ在所ヲ一宮下ト記スルモノ解スベカラス(図2)。(寒川神社から一里以上離れている海老名市国分を一宮下と言うのは理解できない。)
1981.
3.25
神奈川県史通史編1原始・古代・中世p292.国分寺の下に一宮下と注しているのが注目される。他寺の例によれば、これはこの寺の所在地を示している。相模国一の宮寒川神社は寒川町にあり、寒川町に一宮の地名もある。もし、この「吾妻鏡」の注を信ずるとすれば、国府が大住郡に第二遷したとき、国分寺も海老名市から移った、ということになろう。将来の検討を要するところである。
1990.
11.1
寒川町史1資料編 古代・中世・近世p223.「国分寺 一宮下」は、論争になっている。国分寺も寒川へ移ったのではないか、というのが「神奈川県史」の説であるが、いかがであろうか
1997.
11.12
えびなの歴史―海老名市研究―第9号 海老名市史編集委員会 鎌倉期における相模国分寺 池田正一郎p32.一ノ宮が寒川にあることが明白であることから考えると国分寺はこの(寒川)付近にあったということがいえると思われる。(*1)
1998.
3.27
海老名市史2資料編中世p78.一宮下とあるのは、他社寺の注から推して所在地を示すと思われるが意味不明である。(略)寒川町の一宮と当市の国分寺が近接しているので、このように表現されたのかもしれない。
2009.
3.10
現代語訳吾妻鏡5征夷大将軍 編者 五味文彦・本郷和人 吉川弘文館p258.相模国一宮と称された寒川神社の社領のあった一宮庄か
2011.
11.26
寒川文書館中世史講座テキスト2010年度 郷土の史跡と『吾妻鏡』の世界 寒川文書館 編集・発行p9.海老名市国分の国分寺カ
*1:ここでは「一宮=寒川」という意見であったが、海老名市史として出来上がった時には「一宮=意味不明」に変わっている。

1985.7 「国分寺志」中山毎吉・矢後駒吉 p154に「東鑑 第十二 建久三年(1192)八月九日の条」の記述はありますが、「国分寺 一宮下」には触れていません。
相模国分寺が寒川にあったかも_d0240916_15030265.png
図1 東鑑
相模国分寺が寒川にあったかも_d0240916_15034094.png
図2 新編相模国風土記稿

■「一宮下」は何を意味しているか

「一宮下」が国分寺の所在地を現しているとしたら、海老名市国分ではなく寒川町が妥当と思われます。海老名市国分を現すのであれば「国分寺 国分」と書けば良く、紛らわしい「一宮下」と書く必要はありません。あえて「一宮下」と書いたのは、この時{建久3年(1192)}、本来あるべき「国分」に国分寺がなかったから、とは考えられないでしょうか。

■寒川に国分寺があった、としたら

何らかの理由で、一時的に一宮(寒川)に国分寺があり、それを現すために「一宮下」と書いたとしたら、その寺は一宮のどこにあったのでしょうか。
相模国分寺が寒川にあったかも_d0240916_15010606.jpg
寒川神社の近くで、国分寺に関わりがあった所と言えば、大観音寺があります。「天平宝字(757~764)年頃、この地に『大観音寺』というお寺があり、国分寺の『読師』が住んでいた」という伝説が残っています(*2)。このような伝説が残っているのは何かそれらしきことがあった可能性があります。この「大観音寺」、または「その後の寺」が国分寺だった、とは考えられないでしょうか?

*2:「鷹倉社寺考」海老名古文書研究会 H15(2003).4.20・・・「鷹倉社寺考」は万治2年(1659)寒川神社の神官従6位下金子伊予守の編著書

[歴史年表]

1181.1 梶原景時一ノ宮を領す
1192.8.9 政子の安産祈願のため相模国内の寺社へ神馬奉納{鶴岡、国分寺(一宮下)、一宮(佐河大明神)始め28社寺}
1194.11.27 頼朝が国分寺の修復を命じた この当時の国分寺は寒川神社の近くにあった?
1199.1 頼朝死去
1200.1.20 梶原景時死去

[出典]

東鑑 国立国会図書館デジタルコレクション

新編相模国風土記稿 第3輯 大住・愛甲・高座郡 国立国会図書館デジタルコレクション

発行日 2018.2.5


by jyohokiti | 2019-11-23 18:14 | 観光案内

湘南遺産 生往寺

2018.6.24(日)、藤沢商工会館ミナパーク6階多目的ホール3で開催された「第3回湘南遺産選定発表会」で 生往寺 湘南遺産 に選定されました。
湘南遺産 生往寺_d0240916_15453787.jpg
(同時に「西寒川支線 廃線跡」も選定されました)

生往寺を湘南遺産へエントリーした理由は下記の通りです。

生往寺は、寒川町田端(茅ヶ崎市との境界)にある浄土宗のお寺です。
開創は菊地泰次、開山は文賀、本寺は芝の増上寺です。

湘南遺産へエントリーした理由は、生往寺は、湘南(相模国)の戦国時代の始まりと終わり(小田原城を巡る争い)に所縁の人々が眠る寺だからです。

応永23年(1416)の上杉禅秀の乱が戦国時代の始まりと言われています。この時、土肥・土屋の跡を賜ったのが大森氏で、領地となった小田原に、応永24年(1417)頃、大森頼春が城を築いたのが小田原城の始まりと考えられています。そこから80年以上、大森氏が城主でした。
しかし、文亀元年(1501)頃、伊勢宗瑞(俗称 北条早雲)が大森氏から城を奪いました。以降約90年間、後北条氏が小田原城主となり、湘南はもとより関東一円の領主になりました。
そして、天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、後北条氏が滅び、家康が関東へ入ってきました。ここで、湘南の領主が総入れ替えになると共に、戦国時代に終わりを告げました。
生往寺は、初代小田原城主大森氏の末裔、菊地泰次(父親 大森泰頼)が創建し、葬地となったお寺です。
また、後北条氏が滅び、家康と共に関東へ入国した萩園の領主、遠山氏の葬地でもあります。
家康の関東入国以降の人々の墓石碑は寒川町倉見(高木清方)、茅ヶ崎市堤 浄見寺(大岡忠政)にもありますが、戦国時代の始まりと終わり、両方に所縁の人々の墓石碑があるのは生往寺だけと思われます。

後北条氏が滅び、家康と共に関東へ来て、湘南に知行地(領地)を持ち、陣屋を構え、葬地も湘南、という旗本は、遠山氏以外にもいます。
旗本氏名知行地陣屋葬地
遠山安吉茅ヶ崎市 萩園萩園 満福寺の西側。「トノヤシキ」の地名が残る。田端 生往寺(浄土宗)
高木清方(倉見 行安寺開基)(兄清秀は徳川十六神将の一人)寒川町 倉見倉見村の北にあり、東西42間、南北24間、今陸田となれり(新編相模国風土記稿)寒川町 倉見(陣屋の跡か?{行安寺(浄土宗)の北東}
大岡忠政(大岡越前守忠相(*)の祖先)茅ヶ崎市 堤 高田 寒川町 下大曲堤 浄見寺の東南茅ヶ崎市 浄見寺(浄土宗)

*: 南町奉行。大岡越前守忠相の知行地は寒川町 下大曲。
広報ふじさわ2013年7月10日号
http://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/kouhou/sumafo/khf-s130710/sisei23_s.html
廃藩置県 下大曲村は西大平県 大岡越前守忠相
https://samkajyoho.exblog.jp/26894579/
登録 2018.6.27
























































































































































































































































































































































































by jyohokiti | 2018-06-27 15:50 | 観光案内

戦国時代から江戸初期にかけて寒川に住んでいた人びと

戦国(後北条)時代から江戸時代(初期)にかけて寒川に住んでいた人びとをご紹介します。
戦国時代から江戸初期にかけて寒川に住んでいた人びと_d0240916_16453371.png

没年説明
1559永禄2年山中彦八郎・後北条氏家臣大道寺周勝の家臣。倉見領主。小田原衆所領役帳・河越衆の中に「一宮倉見30貫文」の記載あり。
・大村地番756が居館跡と考えられる。浅間社創建。(*1)
・倉見才戸遺跡第11次調査の結果、障子掘を発見。この障子掘は後北条時代の類例と近似している。よって、この辺りに屋敷があった可能性がある。(*4)
1580天正8年木内吉次千葉介家来。円妙院栄伸日貴居士。二男与兵衛門吉定の妻は広田修理の娘。吉定の長男(吉次の孫)は万部寺開山日桂上人。(*2)
1599慶長4年高木清方・高木六郎左衛門宣光の二男。高木清秀の弟。高木城(安城市高木町下屋敷:安城市指定文化財)で生まれたと推測される。水野下野守信元→佐久間右衛門尉信盛→水野和泉守忠重に属す。天正19年(1591)徳川家康直属の家臣となり、相模国高座郡倉見村に680石の知行地・倉見を賜わる。
慶長4年(1599)死去。66歳。墓は行安寺の北東。(*3)
・浅間社の敷地内に熊野神社創建。大村・神明社創建。(*1)
1610慶長15年大森泰次小田原城主・大森氏末裔
・父(泰頼)甲斐国・浅利で死して後、後北条家臣(河越衆)仙波・山中(彦八郎)両氏と共に相模国(一宮)へ帰る。一宮では菊地を名乗る。仙波氏(現・藤沢市遠藤)に撫育される。
・田端・生往寺開基。一之宮・車地蔵建立。貴船神社も勧請か?
1611慶長16年土屋権右衛門重成・東照宮、台徳院殿(秀忠)に仕える。1500石、江戸町奉行。(寛政重修諸家譜)
・小谷を知行か?福泉寺に墓あり。
1614慶長19年広田修理田端医王院開基と推定。摂津国、武庫郡広田郷(西宮市)の出と推定。関ケ原の合戦{慶長5年(1600)}では西軍か。関ケ原の合戦後、寒川・田端邑へ。墓塔は医王院本堂に近接、本尊・薬師如来に向かって建つ。実厳院心光宗月居士。(*2)

[出典]

*1:「倉見神社之一考察」池田銟七 平成10年
*2:「医王院開山之一考察」池田銟七 平成12年
*3:新訂「寛政重修諸家譜」第5 続群書類従完成会 昭和39.11.30 p396
*4:「神奈川県高座郡寒川町 倉見才戸遺跡 ―第11次調査 発掘調査報告書―」寒川町教育委員会 2010.3.31
*5: ウィキペディア「高木清秀」https://ja.wikipedia.org/wiki/高木清秀

by jyohokiti | 2018-06-05 16:01 | 観光案内

寒川町 庚申塔 一覧

寒川町には庚申塔が38基あります。
文字(16基)、三猿{7基(内訳:三面各1猿2基,一面三猿5基)}、青面金剛(14基、内ショケラ持ち3基)、地蔵型(1基)の4種類あります。
寒川町 庚申塔 一覧_d0240916_14010889.jpg←菅谷神社 文字庚申塔
寒川町 庚申塔 一覧_d0240916_14071866.jpg
←医王院 三面各一猿庚申塔
寒川町 庚申塔 一覧_d0240916_14035177.jpg
←一之宮宿町 横一列三猿庚申塔
寒川町 庚申塔 一覧_d0240916_14063876.jpg
←南泉寺 ショケラ持ち青面金剛庚申塔
寒川町 庚申塔 一覧_d0240916_14380927.jpg
←大蔵共同墓地 町内唯一の地蔵型庚申塔


場所文字三猿青面金剛地蔵建立年備考
3面各1猿1面3猿ショケラ無ショケラ有
田端東町不明
医王院元禄3年1690
一之宮宿町寛文4年1664
南泉寺安政4年1857
中瀬神明社文化12年1815
十二神社天保14年1843現大曲神社
鈴木家内寛文3年1663
下大曲神社承応2年1653現在は方徳資料館で展示
天保14年1843
安楽寺享保17年1732
大塚児童遊園地東側嘉永4年1851
菅谷神社享保11年1726
天明8年1788
文化11年1814
文化13年1816
文化13年1816
嘉永2年1849
大蔵共同墓地享保4年1719
小谷東町元文5年1740
小動神社文化12年1815
天保10年1839
文久2年1862
不明残欠
宮山根岸下享保3年1718
福岡家内享保2年1717
旭保育園北側享保2年1717
寒川橋東側享和3年1803
旭橋脇享保□年1716-1736
中州稲荷社天保7年1836
宮山橋脇嘉永1年1843
端午橋東側享保7年1722宮山、西善院近く
十二天神社享保12年1727倉見
天保13年1842
倉見中倉見不明
倉見才戸下文久1年1861
倉見地蔵堂天保2年1831
不明
不明

出典:寒川町史11別編 美術工芸 H4.11.1


by jyohokiti | 2018-05-29 14:48 | 観光案内

一之宮 入沢家 弁財天堂 日野屋

入沢家弁財天堂
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入沢家が最も繁栄していた明和・安永年間(1764~1781)に建立されたと思われます。

一之宮・入沢家の屋敷地内の池の中島にあり、弁天堂として定石どおりの配置である。総欅(けやき)造りで、随所に丹念な彫刻を施し、表面には木目を活かして透明な漆を塗るなど、近世風の華麗な装飾を施して、時代性をよく示した建築である。18世紀半ばごろの建立かと思われる。町指定重要文化財。(『町史11』p563、『町史15』p181)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


入沢家・日野屋

享保16年(1731)から文久元年(1861)5月まで約130年間、入沢家は江戸本町四丁目(現在の日本橋)に店舗(日野屋)を構えていました。
文政7年(1824)から天保11年(1840)の間、入沢家が日野屋を手放したことがあります。文政7年(1824)3月発行の 「江戸買物独案内」では日野屋は喜兵衛の名前になっています。
一之宮 入沢家 弁財天堂 日野屋_d0240916_17513280.jpg
また、文久元年(1861)、入沢家が江戸から手を引いた後、引き継いだ日野屋惣助の引札(宣伝用のチラシ)が残っています。朝日オリコミ四国のHP
(http://www.asahi-os.com/first/study/history.html)
によると、『「日野屋」は、薬種取扱い商店で「人参大乗円」「金応丹」という商品の看板が見え、タイトルには「江戸出店の図」と書かれていますから、新規出店の挨拶と告知の広告と思われます。』とのこと。
また、内藤記念くすり博物館
(http://www.eisai.co.jp/museum/curator/advertisement/see02.html)
にチラシの詳しい説明が掲載されています。
一之宮 入沢家 弁財天堂 日野屋_d0240916_18050528.jpg

日野屋 江戸へも進出していた一之宮村の豪農の屋号。入沢伊右衛門と新太郎を世襲名として持つ。同家は、寛文年間(1661~1673)に近江(おうみ)国日野(滋賀県日野町)の商人が一之宮村に定住したものといわれる。江戸に拠点を構え、一之宮村内でも本宅で農業経営や米穀商売などを行うかたわら、向店(むかいだな)を開いて商売を行っていた。
このうち江戸店の開店は、享保16年(1731)で、江戸の中でも一等地である本町四丁目に店を構え、薬種・荒物のほか繰綿・木綿・ろうそく・金物などを取り扱っていた。元文2年(1737)には一之宮で向店を開店し、江戸店から仕入れた薬種や砂糖などの荒物を商うようになる。宝暦5年(1755)に江戸の十組問屋(とくみどんや)のひとつ大伝馬町組薬種問屋仲間に加入し、以後は薬種・荒物を主に取り扱うようになる。また、江戸においては町屋敷経営を行い、18世紀前半には一等地の日本橋町人地を中心に、20か所以上の町屋敷を所有し、家賃収入を得ていた。18世紀末年ごろに、同家の支配役であった喜兵衛に江戸店を譲渡してからは、度重なる火災や物価高騰などから経営不振に陥った。天保11年(1840)には再び入沢家が江戸店の経営にあたるが、業績は回復せず、文久元年(1861)には江戸から撤退し、本宅と向店の経営に専念することとなった。天保2年(1831)に渡辺崋山が著した「游相日記(ゆうそうにっき)」には、厚木周辺の豪農として日野屋新太郎の名が記されている。(『町史6』p556)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


年表

1661~1673寛文年間近江(おうみ)国日野(滋賀県日野町)の商人が一之宮村に定住
1731享保16年江戸店開店
1737元文2年一之宮で向店を開店
1755宝暦5年5月、十組問屋仲間の一員となり、薬種を主要取扱品目とした(*1)。
1764~1781明和・安永年間日野屋江戸店の繁栄が続いた(*1)。
1782天明2年これより前、一之宮弁財天堂建立。
1824文政7年3月発行、「江戸買物独案内」本町四丁目(現・日本橋)に日野屋喜兵衛の名あり。
1832天保3年町屋敷も喜兵衛(入沢家の支配役)他へ譲渡(*1)。{店舗は 文政7年(1824)より前に喜兵衛へ譲渡している。}
1840天保11年再び入沢家が日野屋江戸店の経営にあたる(*1)。
1861文久元年●5月、日野屋惣助に店等を売却して江戸店での商売に終止符を打った(*1)。
●この頃(*1)入沢家から日野屋を引き継いだ日野屋惣助が引札発行。

出典

*1:「寒川町史6 通史編 原始・古代・中世・近世」平成10.11.1





by jyohokiti | 2018-05-17 16:34 | 観光案内

寒川町のあれこれをご紹介しています。


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