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田端山 医王院

2023.8.7 更新

田端山医王院は、田端にある高野山真言宗、もと古義真言宗の寺院。山号を田端山といい、岡田の安楽寺末。本尊は薬師如来。「医王院縁起」によれば、承和元年(834)、摂津(せっつ)の僧龍海による開山とするが、『新編相模国風土記稿』は、永禄3年(1560)に再興した伝誉を中興とする。江戸時代は鎮守貴船大神と稲荷社を支配したが、神仏分離にともない医王院は寺院として存続し、貴船大神は斎藤龍太夫に管理させる旨の願書が明治2年(1869)に作成されている。(『町史10』p95)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)


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沿革

[説-1]

・承和元年(834)(田端地区に?)龍海僧正が開山。
・約700年間無住。
・永禄3年(1560)伝誉が寒川神社供僧の1つとして復興。(寒川神社供僧、他の2つは神照寺と西善院。)

[説-2]

慶長期(1596~1615)、広田修理が開基。開山は伝誉。
承和元年(834)頃は、田端に集落の形成がないので、寺院を建てるとは考え難い。田端に寺を作る程の集落ができたのは(大森)菊地泰次が生往寺を建てた頃(1590年前後)から。

年表

1560永禄3年伝誉-1が寒川神社供僧の1つとして(田端山?)医王院復興(*1)。
1558~1570永禄中伝誉-1卒す(*4)。
1596~1615慶長期広田修理が医王院開基(*3)。
1614慶長19年広田修理没。田端山医王院に葬る。法名 実厳院心光宗月居士。(田端山医王院本堂東側墓碑。田端山医王院境内最古の墓石と思われる。)
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1633寛永10年「関東真言宗古義本末寺帳」に岡田安楽寺の末寺として田端山医王院あり(*2)。
1656明暦2年伝誉-2没。田端山医王院に葬る。(田端山医王院本堂南側墓碑)
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1659万治2年貴船社の棟札に別当・医王院の記載あり(*5)。

確認事項

・広田修理が慶長期(1596~)に田端山医王院を開創したのであれば、伝誉-1はすでに亡くなっているので、(中興)開山は伝誉-2である。

不明点

(1)伝誉は2人いたか?
伝誉-1の存在を裏付ける資料は確認できない。
伝誉-2は墓碑と安楽寺所蔵文書で存在を確認できる。
(2)再興した年「永禄3年(1560)」の根拠が不明。新編相模国風土記稿にその記載はない(但し「中興僧伝誉永禄中卒す」の記載はあり)。
(3)寒川神社の三供僧は、神照寺、西善院、三大坊と言われている(*4)。 田端山医王院が神照寺、西善院と共に三供僧の一つなら、いつ、なぜ、三大坊と入れ替わったのか?

境内の文化財

三猿庚申塔 元禄3年(1690) 正面と左右に各一匹の三猿を彫る。
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出典

*1:田端山医王院寺伝 昭和25年(1950)作
*2:寒川町史 10 別編 寺院 平成9.11.1
*3:医王院開山之一考察 池田銟七 平成12
https://sites.google.com/view/sabookindex/ioinkaizan

*4:新編相模国風土記稿 巻之六十二 村里部 高座郡巻之四
*5:寒川町史11 別編 美術・工芸 平成4.11.1



by jyohokiti | 2018-05-14 11:30 | 観光案内

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