車地蔵は日本各地にあります。
多くの場合「車」は後生車
(*1)を意味していて、地蔵堂の柱やお地蔵様の台座に一輪取り付けられています。横浜市鶴見区、上尾市、毛呂山町の車地蔵は市や町の指定文化財です
(*2)。
後生車以外の車を意味している場合もあります。
小山町用沢宝鏡寺
(*3)や茅ヶ崎市本村(制作年不明)
(*4)の「車」は「大八車」を意味しています。
小山町用沢宝鏡寺の車地蔵は、六角形のろくろの側面に6体(各面1体)のお地蔵様が彫られていて、後生車はないものの六道に結びついています。形は他の地域の六角地蔵
(*5)に似ています。
茅ヶ崎市本村の車地蔵は六道には関係なく、霊を供養するためだそうです。
寒川町一之宮の車地蔵
(*6)は供車の上にお地蔵様が立っていて、
他に例を見ない形をしています。
(寒川町一之宮車地蔵。縁日は毎月24日。↓)
車地蔵の「車」は後生車を意味する場合が多いのですが、後生車が使われるようになったのは江戸時代以降ではないかと思われます。関ケ原の合戦以前の車地蔵の例には小山町用沢宝鏡寺の車地蔵がありますが、後生車とは関係ありません。(下表参照)
寒川町一之宮の(供)車地蔵が最初に作られたのは、関ケ原の合戦以前{慶長2年(1597)}なので、後生車とは縁がないと思われます。
表 車地蔵の例
[説明/出典]
*1:後生車を回すと、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道)の苦しみから救われると信じられてきた。
*2:横浜市鶴見区本覚寺車地蔵(獅子ケ谷市民の森、上神明社の近く)。享保3年(1718)建立。H8.11.5横浜市指定文化財。(地蔵堂に後生車)
上尾市指定文化財第20号堤崎地区車地蔵(台座に後生車)
毛呂山町指定文化財第52号大谷木の車地蔵(台座に後生車、但し、回すことはできない)
*3:「小山町史 第9巻 民族編」 H5.11.30 p973.
*4:「湘南のお地蔵さま」中島 淳一 江ノ電沿線新聞社 2017.4
水越健 『茅ヶ崎郷土史』あしかび叢書3 昭和34年
「東海道沿いの伝説」 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館 「文化資料館ブックレット1 あのみち このみち 歴史みち」
本村1〜4丁目の辺りは、昔からの家々が集まる一画です。昔、ここに「おかね」という娘がいて、ある若者と愛し合っていました。ところが若者が心変わりをして、ほかの娘と一緒になったことから、おかねは若者の家に火を放ちました。放火は重罪で、おかねはとがめられて火あぶりの刑になりました。ところが、それから夜になると車を引くような「ギー、ギー」という叫び声が村中に響くようになりました。これは、おかねの霊が迷っているからだということから、地蔵を作り、車地蔵と名付け供養したところ、不思議な叫び声はなくなったということです。 車地蔵は、本村4丁目にある海前寺の墓地の一画に今も祭ってあり、覆屋(おおいや)のなかに5体並んでいるうちの1体(右から2番目)がそれといわれています。
*5:例―西東京市指定文化財 第1号石幢六角地蔵尊、第22号六角地蔵石幢
*6:寒川町一之宮車地蔵は、木像の地蔵尊を祀ったお堂。供車(ともくるま)地蔵ともいう。「車地蔵沿革史」によれば、堂宇の建立は、慶長2年(1597)3月15日、江戸初期に一之宮に居住していた大森菊地泰次とその家老の秋元金平によるという。秋元は、人びとの模範となるような忠臣であったが、あいにく嗣子がなく、また神仏への子授祈願の効果も現れなかった。そのためこのままでは家が衰微すると察した主君の菊地氏は自らの長子、菊之丞を養子とし、併せて禄高の一部を分知してその後継となした。このことで主君に対する金平の忠誠心は益々深まったが、菊地氏もその至情を承け、安産子育地蔵尊を共に祀ったという。明治初年、堂宇の衰微により、本尊は日向薬師(伊勢原市)へと移管されたが、明治27年(1894)火災により焼失した。昭和11年(1936)、後裔の霊夢を契機に堂宇の再建が企てられ、また本尊も再刻され今日に至る。講中奉納による前立の石の地蔵尊は江戸期のもの。毎月24日の縁日には、地蔵講中による奉仕が現在も続いている。(『町史10』p113)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)
発行日 2018.2.13