■「相模国分寺が寒川にあったかもしれない」と考えるきっかけ
東鑑 第十二 建久三年(1192)八月九日の条(図1)にある「国分寺 一宮下」の解釈の一つに「相模国分寺が一宮寒川神社の近くにあったのではないか」という説があります。
「国分寺 一宮下」に対する見解は様々あります(下表)。
発行年月日 | 資料名 | 内容 |
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1841 | 新編相模国風土記稿 第3輯 高座郡国分寺 | 此地一宮寒川神社ヲ距ル(ヘダテル)事一里餘。然ルヲ在所ヲ一宮下ト記スルモノ解スベカラス(図2)。(寒川神社から一里以上離れている海老名市国分を一宮下と言うのは理解できない。) |
1981. 3.25 | 神奈川県史通史編1原始・古代・中世 | p292.国分寺の下に一宮下と注しているのが注目される。他寺の例によれば、これはこの寺の所在地を示している。相模国一の宮寒川神社は寒川町にあり、寒川町に一宮の地名もある。もし、この「吾妻鏡」の注を信ずるとすれば、国府が大住郡に第二遷したとき、国分寺も海老名市から移った、ということになろう。将来の検討を要するところである。 |
1990. 11.1 | 寒川町史1資料編 古代・中世・近世 | p223.「国分寺 一宮下」は、論争になっている。国分寺も寒川へ移ったのではないか、というのが「神奈川県史」の説であるが、いかがであろうか。 |
1997. 11.12 | えびなの歴史―海老名市研究―第9号 海老名市史編集委員会 鎌倉期における相模国分寺 池田正一郎 | p32.一ノ宮が寒川にあることが明白であることから考えると国分寺はこの(寒川)付近にあったということがいえると思われる。(*1) |
1998. 3.27 | 海老名市史2資料編中世 | p78.一宮下とあるのは、他社寺の注から推して所在地を示すと思われるが意味不明である。(略)寒川町の一宮と当市の国分寺が近接しているので、このように表現されたのかもしれない。 |
2009. 3.10 | 現代語訳吾妻鏡5征夷大将軍 編者 五味文彦・本郷和人 吉川弘文館 | p258.相模国一宮と称された寒川神社の社領のあった一宮庄か。 |
2011. 11.26 | 寒川文書館中世史講座テキスト2010年度 郷土の史跡と『吾妻鏡』の世界 寒川文書館 編集・発行 | p9.海老名市国分の国分寺カ |
*1:ここでは「一宮=寒川」という意見であったが、海老名市史として出来上がった時には「一宮=意味不明」に変わっている。
1985.7 「国分寺志」中山毎吉・矢後駒吉 p154に「東鑑 第十二 建久三年(1192)八月九日の条」の記述はありますが、「国分寺 一宮下」には触れていません。
図1 東鑑
図2 新編相模国風土記稿■「一宮下」は何を意味しているか
「一宮下」が国分寺の所在地を現しているとしたら、海老名市国分ではなく寒川町が妥当と思われます。海老名市国分を現すのであれば「国分寺 国分」と書けば良く、紛らわしい「一宮下」と書く必要はありません。あえて「一宮下」と書いたのは、この時{建久3年(1192)}、本来あるべき「国分」に国分寺がなかったから、とは考えられないでしょうか。
何らかの理由で、一時的に一宮(寒川)に国分寺があり、それを現すために「一宮下」と書いたとしたら、その寺は一宮のどこにあったのでしょうか。

寒川神社の近くで、国分寺に関わりがあった所と言えば、大観音寺があります。「天平宝字(757~764)年頃、この地に『大観音寺』というお寺があり、国分寺の『読師』が住んでいた」という伝説が残っています(*2)。このような伝説が残っているのは何かそれらしきことがあった可能性があります。この「大観音寺」、または「その後の寺」が国分寺だった、とは考えられないでしょうか?
*2:「鷹倉社寺考」海老名古文書研究会 H15(2003).4.20・・・「鷹倉社寺考」は万治2年(1659)寒川神社の神官従6位下金子伊予守の編著書
[歴史年表]
1181.1 梶原景時一ノ宮を領す
1192.8.9 政子の安産祈願のため相模国内の寺社へ神馬奉納{鶴岡、国分寺(一宮下)、一宮(佐河大明神)始め28社寺}
1194.11.27 頼朝が国分寺の修復を命じた この当時の国分寺は寒川神社の近くにあった?
1199.1 頼朝死去
1200.1.20 梶原景時死去
[出典]
東鑑 国立国会図書館デジタルコレクション
新編相模国風土記稿 第3輯 大住・愛甲・高座郡 国立国会図書館デジタルコレクション
発行日 2018.2.5