武田信玄と寒川町(寒川神社・兜、信玄芝原)
2021年 02月 23日
寒川神社・神嶽山神苑・方徳資料館所蔵の六十二間筋兜鉢と信玄芝原です。
伝承によりますと、永禄12年(1569)10月の小田原城攻めの際、寒川神社へ立ち寄り、兜を奉納し、信玄芝原で兵を休めた、とのことです。
しかし、武田信玄は相模川西岸を進軍し、寒川は通っていません(*1)。
武田信玄は小田原攻めの帰路、寒川神社へ寄った、という説があります(*2)。
武田信玄は、往復ともに平塚市の田村地区で陣を張っています(*1)。
田村に陣を張った際に寒川神社へ立ち寄ることは可能と思われます。
しかし、兜の奉納だけなら、信玄芝原で休む程多数の兵を伴って相模川を渡る必要はありません。
小田原城を攻めた帰り、北条の追手をかわすため、鎌倉の鶴岡八幡宮へ行くと見せかけて三増へ向かいました(*1)。この作戦の時に陣を張ったのが平塚市の田村と大神です。鎌倉へ行くと見せかけるため、ある程度の人数で川を渡り、寒川神社へ兜を奉納し、信玄芝原で兵を休め、そこから鎌倉へ向かわず、田村へ戻り、三増へ向かったと思われます。
⇒[武田信玄進軍地図]
(緑色:行き、赤色:帰り、黄色:寒川神社と信玄芝原)
六十二間筋兜鉢は、昭和16年4月9日、国重要美術品に認定されています。



*1:甲陽軍艦品第35(「国立国会図書館デジタルコレクションより」)


*2:(1)寒川町史 6 通史編 原始・古代・中世・近世 平成10年 p339
(2)明治41年(1908)5月15日の「国幣中社寒川神社事歴年表」によると、

[最終更新日] 2016.12.18