中原街道(中原道) in 寒川(さむかわ)
2017年 03月 06日
江戸と中原(平塚市)を結ぶ、ほぼ直線状の街道。
主要道として使われた期間
古代から寛文の頃(1661~1673)まで。
用途
・古代から中世にかけての奥州道ではないか。
・後北条氏(*)が小田原城から関東の各支城へ連絡する運用道として使っていたらしい。
・天正18年(1590) 徳川家康が江戸城へ入城する際、中原街道を利用したと伝えられる。
・中原(平塚市)と小杉(川崎市)に将軍の御殿が建てられ、鷹狩りなどに使われた。
・東海道の整備が進んだことと、寛文の頃(1661~1673)、中原と小杉の御殿が廃止されたことに伴い、政治的な往還路の機能は次第に失われていった。
*:後北条氏:初代長氏(北条葉早雲:1432~1519)、天正18年(1590)豊臣秀吉によって滅ぼされた。
起点
当初、江戸城外桜田門であった。
後、江戸城を拡張したので、虎ノ門を起点にするようになった。
終点
当初、中原御殿(平塚市中原)。
後、東海道の整備に伴い化粧坂(大磯町東端)一里塚に変わった。
寒川町を通る中原道
寒川町内の中原街道には2つの説があります。
それは、①用田から南西へ真っ直ぐ田村の渡しへ向かう「田村渡し直行説」と②露木家の前を左へ曲がり、景観寺」へ向かう「大山道景観寺合流説」です。
新編相模国風土記稿(1830~1844)には、①②両方の説が記述されています。
時代が下がるにつれ、②の道が主要道になったのですが、用田から続く道として使われたところから、②も中原道と呼ばれることがあったのかもしれません。
①の道を歩いてみると、今では、工場や団地で分断されていますが、フェンスの先まで見通して見ると、分断されながらも、かつて直線の道が続いていたことを伺わせる痕跡が残っています。歴史的に貴重な道が破壊されたのは残念ですが、残ったものをつなぎ合わせて往時の姿を想像してみるのは、無傷で残ったものを見る場合とは、また異なった趣があります。


お地蔵様と車の間が中原街道の跡。


この先、日産工機敷地で行き止まり。
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参考資料
品川歴史資料館特別展 「中原街道」 品川区立品川歴史館著 2010.10.10発行
平塚市史資料叢書4 「中原街道抄」 平塚市博物館市史編さん担当著 H16.4.30発行
「中原街道」 池田銟七(さしち)著 H10発行