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梶原景時と寒川町一之宮

寒川町一之宮には梶原景時ゆかりの史跡が残っています。


梶原景時(?~1200年)
治承4年(1180):石橋山の合戦で源頼朝を救った。
治承5年(1181):頼朝に家臣として認知された。この時、寒川・一之宮の地を領した。
梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18202533.jpg[←写真]梶原景時館跡
(現在、寒川町一之宮に梶原景時館跡と称される遺跡が残っています)

正治元年(1199):結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で弾劾され、一之宮に下向。
正治2年(1200):武田有義(ありよし)を将軍に擁立し、再起を図ろうと京都に向け出立。その途中、駿河国狐ヶ崎(清水市)で討たれ梶原山で最期を遂げた。
景時、辞世の句
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ 心の知らぬ 名のみをしけれ」

静岡県静岡市清水区高橋2丁目7番4号の寺院「高源寺」境内には年を経た石碑{(静岡市指定文化財)「不尽乾坤燈外燈龍没」と記されている。}があり、梶原一族の供養碑と伝えられます。
「不尽乾坤燈外燈龍没」という詩句は唐の杜牧の作で次の七言絶句からとったものです。
無辺風月眼中眼。不尽乾坤燈外燈。柳暗花明十萬戸。敲門処々人膺有。

梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18304674.jpg[←写真]伝梶原七士の墓
(一之宮の留守居役であった家族、家臣らがその者達を弔ったという説や、景時父子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祭ったものとも言われています)



文政4年(1821)頃、この辺りにあった城山地蔵堂(じょうやまじぞうどう)に相模国準四国八十八ヶ所第83番札所が置かれました。城山とは梶原景時の館があった所といわれています。
明治の神仏分離令により、弘法大師石像は南泉寺へ移されました。


梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_18445369.jpg梶原景時館跡と伝梶原七士の墓の間に「梶原景時と一宮館跡」を説明する看板が立っています。


梶原景時と寒川町一之宮_d0240916_1972685.jpg看板の一部(一宮館址案内図)を拡大。
梶原景時ゆかりの史跡の位置が掴めます。各史跡を訪れる前にご覧ください。(画像をクリックすると拡大します)}


[参考資料]
鎌倉幕府の重臣、梶原景時の最期の地
http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/shizuoka_bunkazai/tyubu_kajiwarayama.html

梶原一族について / 臨済宗 高源寺 静岡県静岡市清水区


by jyohokiti | 2020-02-28 16:11 | 観光案内

寒川町のあれこれをご紹介しています。


by jyohokiti